曇りなき眼で見定めブログ

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『羅小黒戦記』はプロパガンダではない 「てらまっと」という人の批評(?)に抗して、そしてアニメ批評の貧しさについて

買ったやつ

 映画『羅小黒戦記』吹替版公開の頃なのでもう2年半も前の記事だけれど、てらまっとという人が『羅小黒戦記』はプロパガンダじゃないかとか書いていた。

teramat.hatenablog.com

私もこの頃に『羅小黒戦記』を観てハマったので感想を調べる中でこの記事のタイトルくらいは見かけていたが、読んでいなかった。政治とかテツガクと絡めたアニメ批評に興味がないので。しかし杉田俊介氏のあまりに酷い宮崎駿論を読んだ事などを経て、興味ないとか言っている場合でなく、むしろ積極的に悪しきものとして批判する必要があるように思いはじめた。なのでてらまっと氏の批評もちゃんと読んで批判します。

 杉田俊介批判はこちら↓

cut-elimination.hatenablog.com

小野寺系氏も似たような感じで批判した↓

cut-elimination.hatenablog.com

てらまっと氏の記事の要約

 てらまっと氏の記事を要約しておく。

 とりあえず質が高くて面白かったという事とあらすじが述べられている。

 それもそこそこに、政治の話に移る。曰く、『羅小黒戦記』は中国共産党プロパガンダ的な所があると言う。本当は正当な動機のあるフーシーを悪役とし、しかしそれが執行人のムゲンら体制側の人にわざわざ鎮圧されているので。少数民族のような妖精を体制が取り込む中国共産党の推し進めるニセの「多文化共生社会」を押し付けている、そうした中国の現状を肯定している、というような感じ。ただし最終的に結論は濁している。

 後にてらまっと氏はこの記事を反省しているらしい。

しかし削除もしていないし反省しつつも記事を宣伝するようなツイートもしていたので、こちらも容赦無く批判させていただく。

『羅小黒戦記』はプロパガンダではないし「プロパガンダ的」でもない

 まずプロパガンダとは何か(石破茂風)。政治的思想などを上手く人に伝える、もっと言うと刷り込ませる・押し付ける事だろう。多くは体制が映画などの娯楽を用いて行う。

 『羅小黒戦記』は(おそらく)中国共産党に依頼されて作られた作品ではないので、典型的なプロパガンダではない。てらまっと氏は「プロパガンダ"的"」という言葉を用いているが、この「的」に「典型的なプロパガンダの特徴を有している」という含意があるのだとすればそれは外れている。体制に都合の良い思想をエンタメを通して刷り込もうとしているという意味で「プロパガンダ的」と述べているのだろうが、それは「プロパガンダ的」という言葉で表すべきでないように思える。

 で、思想を刷り込む事が出来ているのかどうかだが、これも甚だ怪しい。だって『羅小黒戦記』を見て「共産党の推し進める多文化共生社会は素晴しい!」ってなるだろうか。ならんのではないか。そう思った人を見た事がないのだが。みんなフーシーが死んだ悲しさを抱えつつ見終るのではないか。

妖精が住処を追われたのはたしかに不幸なことだったが、いまでは彼らも現代文明の恩恵を受けてそれなりに幸せにやっているらしい、よかったよかった──。『羅小黒戦記』を観終わったときのすがすがしい気持ちは、罪を赦された犯罪者のそれと同じである。

こんな事まったく思わなかったが。

 プロパガンダとか言わず「悪しき現状を肯定するような内容になってしまっていたので良くない」とかそういう批評であれば私も少しは認めていた。

 それとタイトルの「良質のエンターテインメントか、体制のプロパガンダか」という文言だが、この二つが排反なのかどうかもやや疑問である。

作品分析の浅さ

 何故てらまっとさんがプロパガンダとか言い出してしまったのか。

 記事を読んでいて思ったのは、作品分析の浅さである。「一見すると多文化共生社会を肯定する良質な作品のようであるが、その実フーシーにも理はあって、それが悪として処理されていて、だから良くない」という議論を長々と展開しているが、そんなもの見れば一目瞭然であろう。

 てらまっと氏は、これを物凄い発見のように思ってしまったのではないか。だから「一見すると良質だがサブリミナル的に悪しき思想を刷り込んでくる」という意味でプロパガンダ的という言葉を用いたのでは。実際には、見ればフーシーにも理がある事は普通にそのまんま描かれているし、それが解っているからこそどう考えてもフーシーは悪として見る事が出来ず、だから悲しい話なのである。子どもなんかを誤って導いたらいけないが、子どもこそそのまんま見るので普通に悲しいのではないか。

なぜ私は『羅小黒戦記』が好きなのか

 こんな事も書いている。

しかし、曲がりなりにも多文化共生をテーマとする作品が、最終的に多数派の免罪という結末にいたるのは、いささかグロテスクと言うべきではないだろうか。もちろん、エンターテインメントとしては完全に正しい。観客は自分の罪と向き合わずに済み、それどころか免罪までしてくれるのだから。

てらまっと氏は「エンターテインメント」というものを舐めていないだろうか。それは所謂「頭を空っぽにして見られる」とかそういうものではないだろう。私が『羅小黒戦記』が好きなのは、それは苦々しい気分も含めて誠実に描いているからである。快楽とか良い刺激だけでなく、心地よい悲しさみたいなものもある*1。その心地よさは誠実に描いた作品でなければなかなか得難い。

 ここでもてらまっと氏は「一見するとエンターテインメントだが実際は単純な快楽に裏がある」という間違った見方をしているように思える。エンターテインメントはそれ自体深いものなのに。『羅小黒戦記』が好きな人の多くもそんな事は解っているだろう。

中国への偏見

 どうもてらまっと氏は、「中国は歴史的にプロパガンダ映画を多く作っている」という事と「『羅小黒戦記』は中国の作品だ」という根拠をもとに「『羅小黒戦記』はプロパガンダだ」と単純に導いているんじゃないかと思える。中国の作品というだけで、先述のようなエンタメの「深み」を割引いて評価しているんじゃなかろうか。ちょっと差別的な気もする*2

 妖精は少数民族の象徴だという読みも、可能だろうがなかなか慎重な検討を要するだろう。なぜ慎重になるべきかというと、「中国なんだから少数民族問題が関係しているに決まっている」という浅い知識に基くステレオタイプな偏見があるかも知れないからである。しかしてらまっと氏は

私はチベット自治区ウイグル自治区で実際に何が行われているのか、正確に知っているわけではない。報道されていることのどこまでが真実なのかもわからない。

とのことらしい。じゃあなんやねんて話。

 こうした「別の可能性」は、もしかしたらいまの中国社会ではタブーとされているのかもしれない。中国共産党による検閲で、そもそも発表することさえできないという事情もあるかもしれない。

↑これはありそうなのだが、私も中国の現状を知らないので要検討。

本当に言いたかった事、アニメ批評の貧しさ

 ここまで述べてきたような事は、読んで考えた事である。最初にこの記事を読んだ時に瞬時に思った事はまた別で、こちらの方こそ強く伝えたい。それは、「どうしてこんなにおもしろいアニメを見ておいてこんなにつまらない批評が書けるのだろう」という事である。批評自体がつまらないと言って悪かったら、「どうしてこんなにおもしろいアニメを見ておいて、そのおもしろい部分をほとんど無視してつまらない話題にばかり批評の重点を置くのだろう」と言っておく。これはアニメ批評全般に対して言える事かも知れず、端的に言ってアニメ批評は貧しい。

 私はノエル・キャロル先生の「批評」概念を評価している。

あんまり哲学的な事を述べてもしょうがないので、短くキャロル先生の主張を要約すると、批評とは価値判断である事、そしてその価値判断は作者の意図がどれだけ達成されているかの客観的評価である事、もっというとその意図は作者が作品をどのカテゴリーに入れているかで為され、カテゴリーごとに何を達成すべきかも決まっているという事。批評家というのはそのカテゴリーの性質に精通していて、作品を適切なカテゴリーに入れられる人である。まあこの批評観は偏っているかもしれないが、しかし作品のカテゴリーを意識しなければ批評が出来ないというのはその通りだと思う。

 で、『羅小黒戦記』のカテゴリーは明らかにアニメである(「アクションアニメ」とか更なる下位カテゴリーも考えられる)。てらまっと氏は『羅小黒戦記』をアニメと思って見ただろうか。記事冒頭で以下のように書いている。

 結論から言うと、私はこの中国産アニメ映画をたいへん楽しむことができた。ディズニーや日本アニメに負けずとも劣らない高度に洗練されたアニメーションが、日本とは微妙に異なった中国の文化背景や生活描写と違和感なくミックスされていて、ふだん日本の深夜アニメばかり観ている私にはとても新鮮に感じられた。とくにさまざまな「目」の表現によるキャラクターの豊かな表情と、ダイナミックな戦闘シーンの描き方には、日本アニメの色濃い影響がうかがえつつも、それをほぼ完全に消化して独自に進化させつつある中国アニメの勢いが現れているように思えた。

アニメっぽい点に触れているのは僅かにこれくらいである。これで「アニメ批評」なんてよく名乗れたものだと思う。「ダイナミックな戦闘シーンの描き方」とか、どのカットのどのような表現がどうダイナミックさに貢献しているのか、とか分析して欲しいものだが。

 政治とか社会問題を扱わなければ、それも反体制的に描かなければ質の低い作品だと評価してしまう、というのは、ハッキリ言ってアニメを舐めている。アニメはもっといろいろな題材をいろいろな角度から描ける。そんな固定観念を持っているから浅い作品分析を大発見のように思ってしまったのだろう。アニメの凄さを知らないから、ネットニュースとかトゥイッターでみんなが議論しているような尺度を持ち出さないと評価できないのだ!

 アニメとしての『羅小黒戦記』という作品は、魅力的な画面で溢れている。絵だけでなく音とかセリフとかあらゆる要素で素晴しい所がある。どうしてそれらの殆どをこうも簡単に見捨てて批評なるものが書けるのだろうか*3

 杉田俊介氏や小野寺系氏もそうだったが、この手の映像やアニメの批評を書く人は、実は映画とかアニメが物凄く嫌いなのではないか、と本気で思っている。アニメを見たくないあまり、実は上映中ずっと目を閉じていて、僅かに音だけ聴いてなんとかあらすじを把握し、後で大好きな政治とかマイノリティとかジェンダーとかの話題に少しだけアニメ要素を入れて批評(?)を書いているのではないか。マジで。

 さて、私の『羅小黒戦記』評は以下を見て頂戴(2年前に書いたものなので拙くて恥しいですが…)。

cut-elimination.hatenablog.com

『羅小黒戦記』のアニメとしての明らかに著しい特徴は、作画の良さである。それを長めに書いておいた。まあ恐らくてらまっと氏は作画とかアニメーターの事なんてよく知らないというかそれを意識してアニメを見た事がないのだろう*4

 実のところ、アニメーターなどの技術職こそ大衆や批評家に黙殺されているのではないか。少数民族のように*5。よくアニメーターの待遇改善などが訴えられるが、アニメファンや批評家がアニメーターの仕事に興味がないんじゃしょうがない。そこから変えていくべきだろう。

その他

 先にてらまっと氏はこの『羅小黒戦記』評を後に反省しているらしいと書いておいた。どうも「プロパガンダ的だ」と書いたのは間違いだったと思っているようなのだが、だったらこのブログで釈明して欲しいものである。じゃなきゃ私が気になるので。今はどう考えているのか。

 

 てらまっと氏は『お兄ちゃんはおしまい!』をまた社会問題と絡めて論じようとしているらしい。(追記:この『おにまい』論の続きはブログには載らないのかも)

teramat.hatenablog.com

まだ序章のようで、作品にすら触れられていない。楽しみにしてまっせ。私の『おにまい』論は↓

cut-elimination.hatenablog.com

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*1:いちおう哲学徒らしい事を付け加えておくと、アリストテレスの時代からも言われている。

*2:私はあんまり軽々しく「差別だ」認定するのは良くないと思っているので、留保を付ける。

*3:アニメが大好きな私には不思議でならない。こんなにもアニメが好きな人に向けたアニメも珍しいだろう。

*4:じゃあなんでアニメ批評なんてやっているのか不思議だが。直接国際政治を論じればよいのに。

*5:アニメーターはまだ作画マニアという存在がいるので良い。美術とか撮影とかアニメにおいて非常に重要なのに無視される事が多い。