『リズと青い鳥』というアニメを見た。
山田尚子監督、武田綾乃原作、京都アニメーション制作、2018年。公開当時わたしは外国にいたような気がする。何故いま見たのかというと「てらまっと」氏が『羅小黒戦記』プロパガンダ説の続きとして論じていたため。それはこちら。
てらまっと氏の『羅小黒戦記』評に対する私の批判はこちら。
cut-elimination.hatenablog.com
てらまっと氏の論への評価
上の記事はちょっとした研究会での発表のまとめらしい。どうも『羅小黒戦記』がプロパガンダかどうかで研究会まで開かれたようなのだ。ご苦労なことだ。
てらまっと氏の主張は、キャラクターへの感情移入は所謂システム1認知的なもの=エンゲージメントとシステム2認知的なもの=ディスエンゲージメントとあり、前者はプロパガンダなどに利用されてしまうが、後者によって高次な自己認識に至れるのではないか、という感じ。私としては特に反論はない。できればベンヤミンのような古典は持ち出さず心理学とかのエビデンスが欲しいところだが、まあそれは難しいか。
疑問としては、それを『リズと青い鳥』のキャラクターの行動で例示している点。つまりこれはアニメ批評ではなくアニメを題材にしたテツガクみたいなものである。やはりてらまっと氏はアニメの作品自体の良さとかには興味ないのかなと思った。また、私は原作を読んでいないので判らないのだが、原作を読めば事足りるような取り上げ方ではないのかと思った。アニメのオリジナルな要素がてらまっと氏の論の中にあるのかが疑問である。
もう一点、結局『羅小黒戦記』はプロパガンダではないのかどうなのか判らなかった。そこをちゃんと論じてけじめを付けてほしかったところ。これと関連してだが、文中の「政治」「政治性」という言葉の意味がよく判らない。どんな作品も見たら何かしら行動とか心持ちが変るから政治的という事だろうか。それだと政治という言葉にそぐわない気がするが。
あと、
この他愛のない遊びは、偶然の一致(ジョイント)という小さな超越性を幸福のしるしとして解釈し、生の意味へと読み替える祈りのプロトコルなのです。
こういう謎のような言葉遣いは出来ればやめて頂きたい。強そうなレトリックを使う文章は逆に弱く見えるものである。
「思いやり」アニメとしての『リズと青い鳥』
私はこの『リズと青い鳥』という作品自体がキャラクターの心をシステム2的にこちらに読ませる作りになっていると感じた。つまりてらまっと氏が作中のキャラクターの行動として取り上げた事を、この作品の観客自体がするのである。てらまっと氏がそこに気付かなかったようなのが少し不思議な気がした。
ディスエンゲージメントみたいなものなのかもしれないが、高畑勲は自身の演出について「客観的」あるいは「思いやり」という表現をよくする。感情移入には「思い入れ」と「思いやり」があり、自分は「思いやり」を育むように作ってきたという。思い入れとはキャラクターの心情を観客にも主観的に体験させる事であり、思いやりとは観客がキャラクターの心情を客観的に考え一体化はせずとも理解する事、という感じである。
『リズと青い鳥』が良いのは、押し付けがましいモノローグやアップによる感情表現がない点である。また山田監督らしい点として、余白を大きくとったレイアウトがある。それと京アニの強みであるフォーカスなどを活かした実写的な撮影。これらによって、キャラクターを画面の中心に置くのではなく空間の中にキャラクターを配置するという描き方が実現している。作品は過度にキャラクターに寄り添わず、観客は物語というか出来事や画面の空気感からキャラクターの心を思いやる事が可能となる。
で、私は『羅小黒戦記』もこうした客観的「思いやり」アニメの系譜にあると思う。てらまっと氏は鑑賞態度としてディスエンゲージメントを推奨(?)するような事を述べるに止まっていたが、アニメ批評を標榜するのであれば、そうした鑑賞が出来るような余白のある作品=思いやりアニメを発見して評価するようにすべきでないか。
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