曇りなき眼で見定めブログ

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高畑勲のアニメーション観 巻き込みと客観、思い入れと思いやり

 高畑勲先生の『アニメーション、折りにふれて』という本を読んだ。

主に2000年代以降に色々な所で書いた文章を集めたものである。読むと別々の文章で繰り返し語られているテーマがある事に気付く。高畑先生のアニメーション観が見えてくるのである。それをここに纏めておく。このアニメーション観は、本書所収の「脳裏のイメージと映像のちがいについて」という論文で最も纏まって表れている。ここから適宜引用する。

 同論文は読書と映像を見ることの違いから話を始めている。読書は文字を読んで自分で想像を働かせることが出来るが、映像は出来上がったイメージを押し付ける事になる。読書は能動的な行為だが映像を見るのは受動的になる。

 文章が個々人の想像力によってイメージを喚起するものであるのに対し、映像化とは、その個々人の想像力を一旦は封殺し、一つのイメージを押しつけることを意味する。想像力によるイメージ喚起は読者の能動的な行為であるが、すでに出来上がった映像は、見る者を受動的な位置に閉じこめる。むろん、映像にも、見る者の想像力の余地を大きく残してあるものもあれば、そうでなくても、映像の魅力を生み出し、その役割を果たしつつ、想像力を別の形で呼び覚まし解放するものもあるのだけれども。(192ページ)

では想像力の余地を残したアニメーションとはどのようなものか。高畑監督『かぐや姫の物語』の敢えて余白を残した画面などはその一例であろうが、ここでは別の事が述べられている。

 高畑アニメはリアルだとよく言われ、実際それを目指していたようだが、それだけでなく客観的に描くことも心掛けたという。登場人物に過度に寄り添わず客観的に描く事によって、実際の心情はどうなのだろうと想像する余地が生れる訳である。

私はリアリズムを推進したが、同時に、やや外側から客観的に描き、映像を見ながら観客が自分で自由に判断する余地を残すような(いわばドキュメンタリー的な)作品作りをしてきた。(218ページ)

高畑監督の『赤毛のアン』などはアンという奇妙な少女を客観的に映す事でユーモラスに描く事に成功している。これは高畑先生も述べているし私も見ていてそう思う。ところが多くの日本のアニメはこれとは反対の方向へ進化していった。

 客観的というのと対比的に述べられるのが「観客巻き込み型」の作品である。

一枚ずつのセル画の密度は極度に上がって複雑化した。しかも、物語の構成や巧みな演出によって、その映像の世界や人物を、美しいとか面白いとか外から楽しませるのではなく、あたかも見る者自身がその世界に入り込んで主人公のすぐ側にいるような錯覚さえ与えてしまうことができるようになった。観客を映像の中に巻き込んで扇情し、興奮させるのだ。(197-198ページ)

しかも日本のアニメは安易な「勇気」や「愛」によって問題を解決してしまう。そのような世界に巻き込まれて「癒し」を得られてしまう事が引きこもりなどの原因になっているのではと高畑先生は分析する。そうした世界から卒業・脱出せずに現実世界を生きる方法として自ら創作者になったり評論家になるのだと指摘し、その例として新海誠の『ほしのこえ』を批判している。これは耳の痛い話である。

 感情移入という言葉があるが、巻き込み型の作品と客観的な作品では別種の感情移入が起こると高畑先生は述べる。巻き込み型の作品では観客は登場人物や場面に「思い入れ」を持つが、そうではなく客観的に見る事で「思いやり」を持つ方が大切だという。

すでにお分かりのとおり、私は「巻き込む」方が表現として上等だと考えているわけではない。むしろ逆で、そこには「思い入れ」や「ドキドキ」しかないことが不満であり、客観的に描いたものに感情移入させるやり方のほうがずっと上等だと思う。想像力の余地があって、「思いやっ」たり「ハラハラ」したりできるから。(220ページ)

ドキドキとハラハラという表現も独特な使い分けがなされている。本書所収の『キリクと魔女』を巡るインタビュー(「『キリクと魔女』の世界を語る」)で詳しく解説されている。

 ハラハラというのはシチュエーションが分かっているとき、たとえば落とし穴があると観客が分かっているときに、そこに主人公が近づいていくのを見るとハラハラするでしょ。(…)見ている自分のほうに判断力があってハラハラするわけです。ところがドキドキというのは、判断力がない。闇を進んでいったとき、どこからゲンコツが飛んでくるか分からなくてドキドキする。(265ページ)

おもしろい。

 

 私は『ゴジラvsコング』という映画を見た際に、まるでアトラクションのように画面を揺らしたりどこから出ているのか分らない音が出ていたりして変な感じがしたのだが、あれは巻き込み型のドキドキだけの映画だったのだなあと思う。

 

 追記

 雑誌『ユリイカ』の高畑勲特集で八重樫徹先生がこの思いやりによる共感について書いていた。「高畑勲と共感の倫理」という論考。八重樫先生はフッサール哲学と倫理学の専門家である。そういう人から見ても高畑先生の理論は興味深いのだろう(八重樫先生はこの論考ではそこまで哲学を使った考察をしている訳ではないが)。

 

 

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