曇りなき眼で見定めブログ

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『分析フェミニズム基本論文集』を読む・その1 サリー・ハスランガー「ジェンダーと人種」

 『分析フェミニズム基本論文集』なる本の論文を一つずつ読んでいくシリーズがスタート!

フェミニズムをちゃんと勉強しないとこの世界のスピードについていけなくなるので勉強したいと思っていた。けれども活動・運動・闘争とか実証性の乏しい社会理論とかと結びついた文章は私には読めない。と思っていたところ分析哲学の論文の邦訳を集めた本が出たのでこれ幸いと読む事にした。訳者のうち木下先生や飯塚先生は『すごい哲学』に執筆していて、それが良かったので安心した次第。

 まずはサリー・ハスランガーという人の「ジェンダーと人種」(木下頌子訳)。男性・女性というジェンダーや白人・黒人といった人種の定義について考察している。

 そもそも定義とは何かという事を考えていて、それ自体が興味深い哲学的考察となっている。定義のやり方にも色々あるが、この論文では「分析的アプローチ」と呼ばれるものを採用するのである。これは、概念の定義を、まずその概念によってどんな目的を達成するか、その目的の為にどんな役割を果すかを考え、そのリソースとなるように与えるというアプローチである。即ちその概念に「どうあって欲しいか」という観点から迫っていく。そして日常的な概念を批判し改訂するような定義となる。

 まず一読して、面白いがそれで良いのか? となった。やはりフェミニズムは闘争的な側面がある。概念を改訂しようとするのだから。それが学問と相性が悪いように思う。しかし概念工学なる有用性の観点から定義を考える哲学手法も近年はあって、それに近いものと考えれば良いのかもしれない。ただやはり目的の為に事実を歪める事になりはしないかという懸念はある。

 それで当の定義なのだが、唯物論的(マルクス主義)フェミニズムに基いて行われている。これに対する批判や見当が為されていない事に、フェミニズムに疎い私は戸惑った。最終的に得られる女性の定義は以下のようなものである

Sは女性である iff_id

(1)Sは、特定の身体的特徴を持つと規則的かつたいていの場合に観察または推測されており、その身体的特徴は生物学的に女の生殖的役割を担う証拠と考えられている。

(2)Sがこれらの身体的特徴をもつことは、Sが属する社会の支配的イデオロギーのもとで、ある種の社会的地位──実態としては従属的であるような地位──を占めるべき人としてSを印づけている(それによって、Sがその地位を占めることを動機づけ、正当化している)。

(3)Sが(1)と(2)を満たすという事実によって、Sは体系的に従属的地位に置かれることになっている。すなわち、ある一定の側面においてSの社会的地位は抑圧的なものであるのだが、Sが(1)と(2)を満たすことが、その側面における従属化の要因となっている。(23-24ページ)

「女」を「男」、「従属」を「特権」に置き換えると男性の定義になる。私が戸惑ったのは、女は従属で男は特権というのが当り前となっている点である。フェミニストにとっては当り前かもしれないが、やはりどうも引っかかる部分はある。私は現代日本でも女性は男性より自由が少ないと思っているが、従属と特権という言い方が適切かどうかは判らない。そんな階級のようなものだろうか。女性は抑圧されているという表現も出てくるが女性であるが故に出来る事もあるだろうし男性は男性であるが故に抑圧される事もあり、もっと繊細な議論が必要ではないか。などと社会学的な議論が必要になってくる。

 ただしここでの定義は飽くまで改訂的なものであることに注意が必要である。そう定義する事によって何かを達成しようとしている。ハスリンガー先生は、この定義を満たさない女(ジェンダーでなくセックスとしての女(female)は女性(woman)でなく女と訳されている)が存在しうると認める。そして、そうした女が増える事がこの定義の狙いなのである。

実のところ、私は、女性である人がもはや存在しない日が来ることこそフェミニズムのプロジェクトの一部であると考えている(もちろんこれは、女たちを始末していこうという意味ではない!)。したがって私は、先に定義した意味での女性に当たらない女たちが存在しうることを喜んで認めており、そうした人の存在(あるいは存在する可能性)はこの分析の反例にはならないのだ。(31-32ページ)

しかし、ではそうして変えようとする社会の現状は本当にこうした定義を必要としているのか、そしてこの定義で十分なのか、というやはり社会学的な議論に着地するように思われる。

 また、こうした分析的アプローチによる改訂的な定義が本当に社会を変えるのに有用なのか、いまいち判然としなかった。ハスランガー先生は以下のように述べている。

私は既存の言葉を新たな仕方で使うことを勧めているにすぎない。しかし、それは政治的な問題でもある。(…)私は、この試みが、批判的精神をもった社会的主体を力づけるのに役立つことを期待している。もちろん、私が提案している用語法の変更が政治的に有用かどうかは、それが使われる文脈や、それを使う個人に依存するだろう。重要なのは、あらゆる文脈で使われるべき言葉を制定することではなく、それぞれの場面で慎重に使われるべきリソースを提供することなのである。(36-37ページ)

ある程度穏当な見解かとは思う。私も日本語で「女」「女性」を使い分けることで実践してみようかな。訳者解説で(故)エリザベス女王の例が出ていたが、エリザベス女王は女であるが女性ではないという事になる。果してどのような成果が出るか。

 本論文は人種についても同様のアプローチで定義している。ただし「白人」「黒人」など個別に定義するのではなく「人種化されている」という述語を定義している。これも従属・特権という語を使っている。白人優位なアメリカ社会では「イタリア系」などはそれ自体が特権を持つ訳ではないので人種化されないのである。

 などなど

 まとめ。この定義のアプローチが本当に許されるのか、従属と特権という性質は妥当なのか、本当に定義の効果があるのか、という点が疑問である。しかしそれぞれには見るべき所のある重要な論文である。全体的に、定義する者の願望で一般名詞の使用を制限する過激な運動に繋がりかねないような印象はある。しかし、それは適切にやれば大丈夫かもしれない。