曇りなき眼で見定めブログ

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『分析フェミニズム基本論文集』を読む・その5 ロビン・ゼン「イエロー・フィーバーはなぜ称賛ではないのか」

 ↓これの続き!

cut-elimination.hatenablog.com

↓これの論文を一つずつ読んでいくシリーズ!

第5回はロビン・ゼン「イエロー・フィーバーはなぜ称賛ではないのか 人種フェチに対する一つの批判」木下頌子訳。この論文は訳者の木下先生が『すごい哲学』で紹介している。

ついでに、デビット・ライス先生がこの『すご哲』での木下先生の紹介を取り上げて批判している。

davitrice.hatenadiary.jp

ライス先生はけっこう『すご哲』に批判的で、しかもなかなか頷ける批判なので、肯定的に紹介した私はシュンとしてしまった*1

 まあそれはさておき。

 イエロー・フィーバーというのは、アジア人に対するフェティッシュな性的興味である。日系在日日本人の私には分らないが、アメリカの白人男性にはアジア人女性をやたらと好む人というのがけっこういるらしい。ゼン先生はこれが良くないのではないかという訳である。ライス先生も指摘する通り、人の好みにまで善悪を問うなかなか過激な主張であると思う。ゼン先生自身も多分アジア系の女性である(主にアメリカについて論じているがアメリカ出身かどうかわからなかった)。

 好みと言っても「ブロンドが好き」のようなそれほど悪くなさそうな好みもある訳だが、ゼン先生はイエロー・フィーバーはこれとは違うと述べる。ここでもステレオタイプの議論が出てくる。イエロー・フィーバーはアジア系女性の「内気」とか「物腰柔らかい」みたいなステレオタイプに由来し、そしてそこに押し込める、つまり再生産する為に良くないという(そしてイエロー・フィーバーの人がステレオタイプを否定しても、それはそう言っているだけで実際はそうではない、ともされる)。

 イエロー・フィーバーの標的になる人が経験する特別に人種と結びついた不快感は、イエロー・フィーバーが、より大きな構造的人種差別システムのなかで果たしている役割、より具体的に言えば、集団としてのアジア人女性の不当な表象において果たしている役割を理解する糸口にもなる。ここで私が指摘したいのは、個々の人種フェチは、その当人が何らかのレベルで抱えている人種的ステレオタイプ起因しているかどうかにかかわらず、人種的ステレオタイプの強化という結果を不可避的にもたらしてしまうということである。(170ページ)

これはあるかもしれないが、よく問題になる広告とかの表現で人種ステレオタイプ的な表現を非難するなら良いと思うが、個人の好みにまで介入するのはやり過ぎと感じられる。そして逆側の視点として、アジア系女性もアジア系女性っぽい振舞いをしないよう努力すべきではなかろうか。アジア系女性は実態としてそれ程アジア系女性っぽくないとは思うが、しかしどうも、この論文を客観的に見ると、アジア系女性は(一部)白人男性からモテる訳で、アジア系女性は恋愛駆引において自分がアジア系女性である事を利用するものなんじゃないかと思える。これは実際どうなのだろう。そうだとしたらアジア系女性は自分から進んでアジア系女性ステレオタイプな振舞いをすることで得しているのであるが。私は別にそれでもかまわんと思うし、ライス先生は自分が白人である事を恋愛において有効活用したことがあるみたいである。

 どうもゼン先生は実は白人男性と付き合うアジア系女性に批判的であるっぽい。アジア系女性が付き合う白人男性は「白人女性と付き合えないからアジア系女性と付き合う低級品」という偏見もあるらしく、そのためそんなダメな白人男性と付き合うアジア系女性は自分を貶めているみたいな議論も出てくる。そして

このときアジア人女性は、アジア人女性ステレオタイプが備えるポジティブな性質にもかかわらず、白人女性より劣ったものとして捉えられている。こうしたこともまた、社会的な意味と表象の問題であり、フェティシストからその標的へと伝播するスティグマの問題である。アジア人女性がもつとみなされる性的優位性は、結局のところ、彼女たちを人間としては劣位に追いやることになる。彼女たちは、よりはっきりと、性的ないし家庭的な対象としての価値しかない存在に格下げされてしまうのである。(173ページ)

となる。正直言ってこの議論にはカチンときた。ほっとけやと思った。貴方に何が分るんだ、と。まあ私も分らないが。

 もう一つ、ゼン先生が挙げているのが、イエロー・フィーバーの人と付き合うアジア人女性は「こいつは私がアジア人だから付き合ってるのでは?」という悲しい疑いを持たざるを得ないという点である。これは思ったより深刻であるらしい。だがこの点はイエロー・フィーバー以外でも起こりそうである。ライス先生も日本の白人であるご自身の経験を書いている。しかし例えばブロンドなんかはブロンドであるせいで差別されたりとかいう歴史はないので違うらしい。だが、相手が自分でなく人種が好きなのではと疑ってしまう悲しさは、差別の歴史と関係ないのではないか。この関係こそ深く論じるべきだと思うのだが、ゼン先生の議論は曖昧に感じた。また、日本における白人もあまり問題視はされないがそれなりに差別の経験はあるだろう。イエロー・フィーバーと比べてどこまで悪いかは微妙だと思った。それとライス先生も挙げているが人種でなく年収とかそういうのも、金持ちの人は交際相手に「こいつは私が金持ちだから付き合ってるのでは?」と疑う事もあろう。金持ちにも金持ちなりの苦悩とかありそうなので、イエロー・フィーバーと別物とも言い切れないかもしれない(でも「金持ちなりの苦悩」って欺瞞かもしれない)。この論点も恋愛の駆引の問題であって道徳的にどうこうではないように思えた。

 全体的に、どうも平等の実現の為にあらゆる人びとが均質な選好を持つようになるべきとゼン先生は考えている感じがする。私はそういうのが理想的な世界とは思えず、また実現もしないだろうとも思う。そのせいで違和感があるのだろう。

 ↓知らんけど

*1:哲学者はあれも悪いこれも悪いと言い過ぎじゃないかというイメージを門外漢に植え付けるというような事をライス先生は述べていて、確かに私が肯定的に取り上げたのは「カンニングは思ったほど悪くないかも」みたいな方向性のものだった。