曇りなき眼で見定めブログ

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なーんだ、トレース(模写、パクリ、AI)か、というガッカリ感

 『フリースタイル』という化石みたいなサブカル雑誌が江口寿史の特集をしていたので立ち読みした。

この雑誌と出版社、そうとう江口に依存しているらしい。毎月なにかしら江口の記事が載っていて、江口の版画も売っている。

 で、特集では、江口が友利昴氏という著作権問題に詳しい弁護士と対談している。江口のイラストの多くが既存の写真のトレースであるということが問題になったが、法的には問題ないのだということを確認する対談になっている。友利氏はほぼ全面的に江口擁護の姿勢である。

 私はというと、江口の手法は問題だと感じた。それが法的な問題ではないにせよ。どうせなら雑誌はそういう江口批判者の意見も載せて中立にすべきだったと思うが、まあもともと江口にお世話になっている雑誌なのでそうはしたくなかったのだろう。

 対談を読むと、江口はTwitter(X)をかなり恨んでいるということがわかる。Twitterで不当にバッシングされて、自分の主張がかき消されていると感じるようだ。私もそう思うが、だからこそ誌面で冷静に議論すべきであろう。自分や擁護の意見と同じくらい、冷静な批判の意見もTwitterではかき消されるのである。

 そういうわけなので、私なりの江口批判を書いておく。

 まず、モデルのインスタの写真を勝手にトレースした件について。友利氏は、著作権は問題ないが、肖像権やパブリシティ権はやや怪しく、事前に一言あってもよかった、的な感じだった。しかし私が思うに、それは法律の話で、勝手に使われたモデルの人は嫌だっただろう。私も想像したら嫌である。法的に問題ないと言っても、それは創作という文化の自由と個々人の不快感を避けることを天秤にかけて、法律が前者をとった結果であろう。なので使われた人が不快になったことは確かなのである(なのに江口は「ちゃんと謝っただろ」的な態度でなんか偉そう)。明らかに個人を不快にさせる手法を大手の広告で使ったのはまずかったと思う。もっとひっそりアングラなところでやっておくべきで、私はこういう棲み分けは大事だと思う。

 まあこれはいいとして。問題は「なーんだ、江口寿史って絵上手いと思ってたけどただのトレースだったんだ」とガッカリしたという点である。これは罪深い。法的に規制しようもない、創作倫理みたいな話である。

 今回のような手法は絵に詳しい人の間では常識だったのだろうか? 少なくとも私は、この騒動以降、江口の絵にあまり魅力を感じなくなってしまった。写実的な絵なんてどうせもとの写真のおかげだろ、と思うし、集合絵は、写真を適当にコラージュしてるのが透けて見えてなんかぎこちなく下手に見える。

 つまり、ガッカリ感は知覚経験にも影響を与えているのである。ガッカリする前と後で、絵そのものは何も変わっていない。なのに褪せて見えるのである。江口の問題は、これを軽視したことにある。

 ガッカリさせないためには、最初からトレースであることを喧伝しておけばよかったと思う(もちろんそうすることで評価は今より下がっただろうが)。対談記事でアートにおけるアプロプリエーションに言及していたが、そういう作品はちゃんとそういう文脈で鑑賞されている。対談記事で言及していた、ウォーホルの写真を加工した絵画(?)作品は、写真を加工した作品であることが明らかであるようにして作っている。むしろただの加工品であると強調することそのものが彼のオリジナリティである(当時そう思っていない人もいたかもしれないが、今はわかるのでまあそれを差し引いてもいいだろう)。江口の場合、構図とかポーズとか輪郭とかの美しさはオリジナルの写真から盗んでおり、しかもそれを黙っているのが問題である。構図やポーズや輪郭は自分のものではないのに、そこも込みで評価されようとしている、ないし、評価されたことをよしとしている。これについては美学者の森功次先生のブログ記事も参照。

morinorihide.hatenablog.com

 今回のと似たようなのだと『SLAM DUNK』も、迫力あるバスケの絵のうちけっこうなものがバスケ雑誌の写真のトレースと発覚していて、これも知ったときはガッカリだった。だが同作は話がおもしろいし試合以外の絵も良いので、総合的にはやはり優れた漫画である。江口はイラストなので、構図やポーズや輪郭を除いたらわずかしか残るものがない。

 前に書いたのだと『チェンソーマン』の悪魔のデザインが『アバラ』という漫画に似ているというのがある。

cut-elimination.hatenablog.com

これについてはデザインセンスが似ていることなんて法的な問題は何もないし倫理的にもだいたいセーフだろうが、それでも「斬新なデザインセンスだ!」とか評価されて元の作品より売れてしまうとモヤっとする。チェンソーマンの藤本タツキも多分そう思ったのだろう、主人公の「デンジ」という名前をアバラからそのまま拝借している。これはあえて「自分はパクリですよ」とシグナルを送っているのだろう。これくらい露骨にパクったほうが、私の言うガッカリ感は避けられる。というか、元ネタを知ったときに「なるほど!」となる要素を用意しておくことで、ガッカリ感を軽減する手法だろう。『呪術廻戦』の「うずまき」というスタンドも、伊藤潤二からパクっていることをちゃんと了解させるために同じ名前を使っている。

 水木しげるの妖怪や、荒木飛呂彦の「ジョジョ立ち」も、写真や絵画や彫刻に元ネタが見つかっているものが多い。これらはチェンソーマンや呪術とは違って、江口と同様、元ネタがあることを隠していた。だから元ネタがあると知ったときはけっこうガッカリした。しかしこの人たちは「まさかこの写真を妖怪のデザインに!?」とか「まさかバトル漫画のキャラクターのポージングに!?」という驚きがある分よいと思う。パクリ方、文脈の移し方にセンスがあった。またトレースより模写が多い。江口のは、ファッション誌の写真をオシャレなイラストにトレース、という、ひねりのない移し方が問題だった。

 元ネタがあることを見抜いて、ガッカリを事前に軽減しておくと言うのも、批評家の仕事の一つだと思う。私は自信ないけど。最近だと、上手いと思った絵がAIでガッカリするという例が増えてきた。私もけっこう騙されている。

 写真とかAIという技術がなかった近代以前の作品は、ガッカリで色褪せる可能性が低い。技術の進歩によって古典の重要性が増してくるという皮肉なことになりそうだ。

 なんか思わぬところに着地したが、こんなところでひとつ。

 あと、対談で江口は、復帰作としてエロ漫画を執筆していると述べているが、私はこれはぜったい完成しないと思う。