曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

おすすめの記事

 当ブログは論理学を中心とした哲学・数学・計算機科学の勉強記録と、アニメの批評・感想を中心に書いております。おすすめの記事は以下です。

 

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 アニメにもジェンダーやフェミニズムを考えるうえで示唆に富んだ作品はたくさんありますよ、という記事です。いろいろな作品を紹介しています。本当の目的はアニメ一般に対する「前時代的」という批判への反論です。私の調べが進むにつれてアップデートされていきます。

 

 私の研究対象である線形論理というのの入門解説です。

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 藤井聡太先生の脳内には将棋盤がないという説を、様々なインタビューや棋士の証言をもとに検証しています。

 

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 マンガ『チェンソーマン』第43話に出てくるロシア語の歌を翻訳しています。元ネタはなんなのかもちょいと考察しています。

 

あとはカテゴリーから見てみてください。

ジャン=イヴ・ジラール『盲点(The Blind Spot)』を読む その1 本のデータ

 千里の道も一歩から。ジラール先生の『盲点』を1ページずつ精読するシリーズ記事を書いていきます。何年かかるかわからないけど、読了を目指します。

 初回はまず本のデータから。

 著者のジャン=イヴ・ジラールは1947年生まれのフランスの論理学者。ホームページは↓こちら。

girard.perso.math.cnrs.fr

 本書の元になったのはローマ大学での講義のようだ。

 はじめフランス語の2巻本として2006-2007年に出て(タイトル"Le Point Aveugle")、その後で2011年に英語版が出た。英語版は全一冊で、500ページ超。ジラールは他に『証明論と論理的複雑性』と『透明性の亡霊』という本を書いているが、それらより長い。

 表紙には述語論理版の証明ネットが描かれている。証明されているのは中世に「バーバラ」と呼ばれた形の三段論法だ。

The Blind Spot: Lectures on Logic

The Blind Spot: Lectures on Logic

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 今日はこのへんで。次回は目次を見ていきます。

「ほしのこえ」から『我々は宇宙人』へ、私的現代アニメ史

 絶賛上映中の『我々は宇宙人』について、3つ目の記事。前の記事は↓から見てね。

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 今回は↓の2つの記事に連なることを書きたい。

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『我々は宇宙人』を、もっと大きな史的文脈から考えたい(といっても個人的な史観になるが)。主に何を言いたいかというと、現代のアニメ界では、芸術路線(いわゆる「アニメーション」)とエンタメ路線(いわゆる「アニメ」)の違いが薄れてきていて、その流れの極地に『我々は宇宙人』が生まれたということだ。

 現代アニメ史の最初の大きな転換点は、2002年の新海誠「ほしのこえ」だろう。これの何が画期的だったかというと、私が思うに、個人制作で中編のSFエンタメ作品が作られ、しかもヒットしたことである。個人制作のアニメというと、基本的には「実験アニメーション」と言われる個性的で芸術的な作品が普通だった。新海は、個人制作ならではの作り込みでエンタメをやってみせたのである。

 しかも新海は、当時すでに流行っていた「萌え」の観点に加え、新たな物語ジャンルである「セカイ系」をやってみせたのだ。ただ、こうした要素は、個人制作というスタイルも相まって、高畑勲などから「社会性の欠如」を批判されもした。

 とにかく、これを機に、「大手制作スタジオで下積みから出世して監督になる」というのではないルートが生まれた。これにより、大袈裟に言えば、アニメーションにおいて芸術性とエンタメ性は二者択一ではなくなったのだと思う。ただし、吉浦康裕などを除いて、この新海の路線は意外と後続者が出なかった。

 第二の転換点は、2013年の『惡の華』だと考える。これは漫画を原作としたテレビアニメで、何がすごかったかというとロトスコープという手法を使ったことである。ロトスコープというのは、先に実写で撮影した映像を作り、それをなぞって作画するという手法だ。黎明期のディズニーや東映動画も使っていた歴史ある手法だが、『惡の華』で初めてテレビシリーズで全編にわたって用いられた。

 ロトスコープの長所はいろいろあるが、なんと言っても大きいのは、実験アニメーションのような生々しい質感を、ある程度まで省力で実現できるという点である。超絶的なアニメート技術を、何をトレースするかというセンスや勘と、絵そのものの技術(アニメートでなく)で代替できるのだ。『惡の華』に続いてロトスコープを本格導入した大規模なアニメ映画は、岩井俊二監督の『花とアリス殺人事件』だった。岩井は実写映画の監督であり、アニメの経験はほとんどない(この前にロトスコープで短編を作っている)。にもかかわらず作れたのはロトスコープという手法の力が大きいだろう。『花とアリス殺人事件』でアニメーションディレクターを務めた久野遥子については、上の「2020年代のアニメ総まとめ」を参照。

 最後に第三の転換点は、2020年の『音楽』である。監督の岩井澤健治と少数のスタッフが、7年も掛けて完成させた(短めの)長編作品だ。「ほしのこえ」よりも倍以上長く、またエンタメ性も高い。それでいて自主制作らしく実験アニメーションのような生々しい質感も保持しているのは、やはりロトスコープという手法を使っているからだ。

 この『音楽』が示したのは、自主制作でもロトスコープを使って丹念に時間を掛ければ、芸術性とエンタメ性の融合を「ほしのこえ」よりさらに大規模な作品でもギリギリできるのではないかということだ。この方向性は、同じく岩井澤監督の『ひゃくえむ。』でさらに高い次元に到達した。

 少人数で長い時間をかけて芸術性とエンタメ性を両立した作品を作るという方針は、その後『ルックバック』や『花緑青が明ける日に』に繋がっていく(これらはロトスコープを前面に使ってはいない)。ようやく新海誠の後続者が現れ出したという感じだ。

 ただし、若き日の新海が食らったような「社会性の欠如」はいまだ多くの作品で感じられる。つまり、アニメに懸ける熱意はあっても、それ以上の物語のテーマがないものが多い。これは『ルックバック』で強く感じ、その他のアニメ映画で常に不満だったことだ(『ひゃくえむ。』なんかは良いテーマだったが)。これについても上の「2020年代のアニメ総まとめ」を参照。

 そんな中で現れたのが『我々は宇宙人』である。本作は現代アニメ史の流れの到達点である。ロトスコープを用いて少数のスタッフで丹念に時間をかけて作った作品であり、それに加えて世の中に訴えるテーマを持っていた。単なる技法の見せびらかしに終わっていない。技法によって描くべきテーマがあったのだ。120分という『音楽』『ルックバック』『花緑青』より遥かに長い長編を、一貫した物語に費やしている。これは画期的であった。

 門脇康平監督はまだ29歳らしい。この若さでここまで到達してしまった。私の史論に収まらないさらなる展開を見せてほしい。

『我々は宇宙人』から考える、アニメーションの力(蓮實重彦vs高畑勲)

 先日絶賛記事を書いた『我々は宇宙人』についてさらなる批評。

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 ↑の記事で、小学校の校舎の細部にノスタルジーを感じるというのを書いた。特にこれを感じたのは、廊下の黒ずみを描写していた点である。あるある、そういえば私の小学校も廊下が黒ずんでいた。

 本作はロトスコープで作られていて、実際に小学校でロケして作ったようである。ということは、本当に黒ずんだ廊下が実写カメラに捉えられていたのかもしれない。しかし、もし本作が実写映画で、このカットがそのまま映されていたら、私はそれほど感動しなかったと思う。実写カメラで撮った映像を流すことと、それをもとに絵を描いてアニメーションにすることの間には、とんでもなく大きな差がある。

 映画批評家の蓮實重彦先生はアニメにはほとんど言及しないが、最近出た『ショットとは何か』という本で少し触れている。いま手元に本がないのだけど、以下のnote記事でその部分が引用されている。

note.com

「いま、生きた被写体を撮っていることの緊張感というものが、アニメの画面に欠けているから」アニメが好きではないという。

 アニメーションの画面に映るのは、生きた被写体では絶対にない。必ずアニメーターや美術スタッフらによって描かれたものである。完成までには演出家や描き手のさまざまな意図が介在し、誇張や強調、あるいは省略や欠落が生じる。もっと言うと、なんの誇張や省略もないリアルな描写でも、「わざわざそれを絵で描いた」という事実が乗っかる。撮ったらたまたま映ったということがないのだ。

 蓮實先生はたぶん実写映画の偶然性の方が好きで、それがありえないアニメが好きじゃないようだ。しかし私は、むしろこれこそがアニメーションの大きな魅力の一つだと思っている。すべてのカットに作り手が「わざわざ描いた」という事実が乗っかることが。

 高畑勲は、自身が監督した『アルプスの少女ハイジ』のリアルな描写について、アニメーションには「再印象させる力」があると述べた(というのは津堅信之『日本アニメ史』で学んだ)。何気ない動作や風景も、アニメーションにすることでその魅力に気づくというのである。私の考えでは、これは「わざわざ描いた」という事実が人々に注視を促すからだと思う*1。

 廊下の黒ずみの話に戻る。実写映画で小学校を撮って黒ずんだ廊下が映っても、たいして感動しないだろう。アニメーションにすることで、見る者は「それをわざわざ描いたんだな」という意識から黒ずみに目が行き、感動するのである。私は『我々は宇宙人』で、アニメーションの実写映画に対する勝利、高畑勲の蓮實重彦に対する勝利を確信した。

 ところで蓮實重彦と高畑勲はどちらも東大フランス文学科を出ている。調べたら高畑が蓮實より2学年上らしい。面識はあったのだろうか。高畑は(同年早生まれで一浪した)大江健三郎と東大仏文科で同学年だったっぽいが、お互いに言及しているところを見たことない。思想も近そうなのでこれも不思議である。

*1:もちろんリアルさを崩さない範囲での誇張や省略の効果も重要だが。

『映画名探偵プリキュア!不思議な庭と2人の秘密』とかいうのを観てきた!(ダメダメは私です)

 まあまあおもしろかった。

 ポチタンどんどんちいかわみたいになってきてる。

 テレビシリーズも見てます。テレビシリーズでは探偵らしく毎週事件を解決しているが、今回の映画は事件とかそういう感じじゃなかった。それでも推理が重要な要素ではあった。

 引きこもりの女の子が外に出るまでの話だった。女の子の負の感情と妖精の力が合わさって「ダメダメ」とかいうバケモンが大量発生してしまう。妖精が二人だけの世界みたいなのを作って引きこもってしまう。けっこう暗かった。私の方がダメダメだわ、と見てて思った。

 キャラクターが吹っ飛ばされたり倒れたり、肉体的な苦痛がかなり多い。

 わんぷり好きだから今後もわんぷり擦ってええんやで、と思った。

ダウ90000蓮見脚本の『クレヨンしんちゃん』について

 腰が抜けるほどかどうかはわからないが、確かにだいぶつまらなかった。

 クレヨンを出さず、みさえとひろし夫婦の何気ない会話を描く、というアイデアはもちろん理解できる。しかしそれにしてももっとおもしろくなったのでは。

 つまらないという噂を聴いて、演劇の手法がアニメというジャンルに合っていないからつまらないのかな、と思って見てみたが、果たして演劇だったとしてもおもしろいだろうか。演劇ってこんなもんなのか、会話劇って、いやそんなはずもない。というか「会話」ってそんなおもしろいか? とか思ってしまった。

 これを受けてダウ90000のコントをいくつかちゃんと見てみると(見たことあるがあまり記憶になかった)、そもそもダウ90000自体そんなおもしろくない気がしてきた。

 伊集院光がこれを批判してさらに蓮見のバラエティでの立ち回りも批判したことで、蓮見がそれに言い返し、世の中の論争が「どちらの立ち回りが上手いか」みたいなのばかりになってしまった。みんな、今いちど作品自体をしっかり見て語り合わないかい?

 ところでこの週をフルで見ると気づくことがある。蓮見の回はCパートで、Aパートの話はクレヨンが珍しく早起きし、さらに後で起きてきたひまわりと二人でいろいろやるというもの。みさえとひろしが見ていないときのクレヨン-ひまわり兄妹のやりとりの話と考えると、蓮見回と対になっているのがおもしろい。

 

 ちなみに私は何年か前まで伊集院の深夜の馬鹿力を聴いていて、馬鹿力カードも4枚くらい持ってるぞ!

『最終楽章 響け!ユーフォニアム 後編』とかいう漫画映画を観てきた!(久美子よ、永遠に…)

 おもしろかりけり。

 なんか周りから啜り泣く声が。私も感動した。

 テレビシリーズより真由ちゃんの心情がわかりやすくなっていたんでないか。奏ちゃんの増補があったのも良かった。しかし3年間を通して見るとよくできた話だ。

 最初のテレビシリーズを見ていたとき私は実質ニートだったが、今は博士号を取ろうとしているのだなあ。

 私は高校生の頃から精神がおかしくなっていてアカンかったので、久美子を見ると気が引き締まる。久美子は進路で悩んでいたけど、吹奏楽部の部長としてこれだけ問題を乗り越えて全国金賞に導いたぐらいだから、今後なにがあっても大丈夫でっせ、と言ったげたい。

タレントやアイドルやインフルエンサーなんてただのサンドバッグなんだから黙っとけ

 タレントやアイドルやインフルエンサーが「誹謗中傷はおやめください。開示請求します」みたいに言い出すことが増えた。はっきり言う、黙ってろ。

 タレントやアイドルやインフルエンサーなんて、庶民のガス抜きのために存在するわけだから、サンドバッグになるのも立派な仕事である。そもそもタレントやアイドルやインフルエンサーの人気というのは、いつかやらかしたときにサンドバッグになるための貯金のようなものだ。大衆は「いつかやらかしたとき叩きますよ。それまでどうぞ夢見ててください」って思いながらちやほやしているのである。

 最近のタレントやアイドルやインフルエンサーというのは、単になんらかのきっかけで話題になっただけの人たちである。話題になることで儲かってきたのに、ネガティブな話題の対象になったときだけ叩くのはやめてくださいって虫がよすぎる。

 宮﨑駿とか宇多田ヒカルみたいな、本当にクリエイティブであったから売れた人たちとは違うのだ。それぐらいになってから泣き言いえ。そして宮﨑駿や宇多田ヒカルは、なんかちょっとやらかしたぐらいで地位が揺らぐことはないだろう。

 などなど。