曇りなき眼で見定めブログ

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おすすめの記事

 当ブログは論理学を中心とした哲学・数学・計算機科学の勉強記録と、アニメの批評・感想を中心に書いております。おすすめの記事は以下です。

 

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 アニメにもジェンダーフェミニズムを考えるうえで示唆に富んだ作品はたくさんありますよ、という記事です。いろいろな作品を紹介しています。本当の目的はアニメ一般に対する「前時代的」という批判への反論です。私の調べが進むにつれてアップデートされていきます。

 

 私の研究対象である線形論理というのの入門解説です。

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 藤井聡太先生の脳内には将棋盤がないという説を、様々なインタビューや棋士の証言をもとに検証しています。

 

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 マンガ『チェンソーマン』第43話に出てくるロシア語の歌を翻訳しています。元ネタはなんなのかもちょいと考察しています。

 

あとはカテゴリーから見てみてください。

河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその14 「旧来の型の労働の隠蔽」に陰謀論の匂い

 ↓これの続き

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 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 『魔女の宅急便』論批判のメイン回でごんす。

 前回見た通り、河野先生はキキの仕事はポストフォーディズムアイデンティティや感情を活用するクリエイティヴなものと考えている。その論証は強引で説得的でないがそれはさておき、そうした議論に続いて以下のように述べる。やはり問題が多い箇所である。

 そして決定打は、魔法の力の源をめぐる対話である。キキは、魔女は血で飛ぶのだと説明する。ウルスラはそれを聞いて納得したように、「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血」と列挙する。ここでウルスラは驚くべき敷衍と、それによる転倒を行なっている。まず、魔女の血と絵描きの血までは結構だ。ここまでの議論の通りである。つまり、そこでは職人を保証するのは外的なスキルではなく、アイデンティティである。しかし、最後のパン職人の血は何か? ここでは、ひどいカテゴリー・ミステイクが起こっている。ここまで『魔女の宅急便』が規範的なものとして示してきた職業と労働は、アイデンティティの労働であり、感情労働であった。パン職人は、魔女や画家との対立においてはフォーディズム的なモノ作り、物質的生産の職業である。しかるにウルスラはさりげなく、そのような職業をアイデンティティの労働の列挙の中に忍び込ませているのだ。(118ページ)

まず混乱があるように思われるのは、「ここまでの議論」では魔女と画家はクリエイティヴな労働という点で似ているとキキとウルスラの間で確認されたというものであって、アイデンティティについては述べられていない点である。河野先生はアイデンティティと感情とクリエイティヴィティをいっしょくたにしているが、これらは違うものに思える(また以前に確認した通り、アイデンティティの労働は本書や三浦玲一の独自の考え方でしかも不明瞭な概念であることにも注意したい)。「血」というキキとウルスラの表現はアイデンティティについて譬喩的に言っているように思えるが、パン職人であることがアイデンティティであってもなんらおかしくないのであり、アイデンティティが特に魔女と画家という職業にのみ当てはまるものだとは「ここまでの議論」では確認されていない。そういうわけなので、「ひどいカテゴリー・ミステイク」といってもそのカテゴリーはこの段落で突如として出てきたものである。魔女も画家もパン職人も「血」と言っていいほどのアイデンティティになりうる職業と考えてなんら不思議ではなく、河野先生がここで想定しだしたカテゴリーこそ不当に思える。

 河野先生は、魔女の宅急便業や画家はアイデンティティになりえて豊かな感情が原動力になってクリエイティヴだがパン職人はそうでない、という図式を作りたいようである。次の段落ではこう述べられる。

 まったくもって皮肉なのは(これは意識的な皮肉なのだろうか?)、劇中に登場する当のパン職人が、感情労働の対極にいることだ。パン職人とはおソノの夫(原作での名前はフクオだが彼も名前は出てこない)であり、彼は、わたしが正しければ、うなり声や「おい!」など、三つの台詞しか与えられておらず、寡黙な職人そのものといった風情である。(118−119)

確かにこのフクオは寡黙だが、感情を表に出さないというだけで感情を込めて仕事をしていないわけではあるまい。またこの「グーチョキパン店」というパン屋は見たところそこそこクリエイティヴなパンを出している(店名もクリエイティヴである)。そして、前々段落ではクリエイティヴィティの話、前段落ではアイデンティティの話をしていたのに、この段落では感情の話をしている。この三つを混同する河野先生こそ「ひどいカテゴリー・ミステイク」をしているのではなかろうか。

 河野先生はフォーディズムへの理解が少しおかしい気がする。

 フォーディズム労働者の典型であるようなフクオをアイデンティティの労働者に無理矢理に引き入れるときに、何が起きているのだろうか? それは、前節の引用で三浦が述べていた、「旧来の型の労働の隠蔽」である(引用者注:「その12」記事で引用した)ウルスラによる列挙は、この世はそのようなアイデンティティ労働で覆われており、旧来型の労働は消滅したのだ、というビジョンを提示している。作品全体としては、パン職人というフォーディズム的労働者をいったんは表象しておいて、それをアイデンティティの労働の側にカウントするという、かなり巧妙な隠蔽戦略が行われているのだ。職業と労働をテーマとするかに見える『魔女の宅急便』は、その実労働の終焉をテーマとしていたのである。そして労働が終焉した世界観によって、キキのような労働力はやりがい搾取されていくのだ。(119ページ)

フォーディズムというのは私のイメージでは巨大な工場で大量生産するために労働がマニュアル化するものだ。街のパン職人はフォーディズム労働者には見えない。

 そして「その12」でも述べたが「隠蔽」という考え方には陰謀論の匂いがする。角野栄子先生や宮﨑駿監督が誰から何を隠蔽しようとしていると言うのだろう。「労働の描写に整合性がない」などの評価をすればよいものを、なぜ「隠蔽戦略」というもっと大いなる意図があるかのような不穏な書き方をしてしまうのだろう。「ビジョンを提示」という表現も不明瞭でかつ過度に不穏で良くない。もうちょっと具体的に中立に書くべきだ。

 また「労働の終焉」とはどういう意味だろう。この議論の流れでは「フォーディズム労働が行われているにもかかわらずそれがポストフォーディズム労働の一種であるかのように描いている」となるはずで、「終焉」まで言う必要はないだろう。

 「やりがい搾取」というのも唐突である。キキは自営業だし自発的に始めた仕事なので「搾取」はされていないだろう。ここでも「搾取」する謎の巨大な勢力を無意味に想定してしまっているように思える。

 さらに『魔女宅』論批判が続きます。

【軽くネタバレ】『映画ドラえもん のび太の地球交響曲』を観てきた!(ニッポンから歌が消えてく…)

 めちゃおもしろかった!

 公開初日。客はそこそこ。終ったあと雪がみぞれになっていた…

乾杯 (24bit リマスタリングシリーズ)

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  • アーティスト:長渕 剛
  • ユニバーサル ミュージック (e)
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 当ブログで最もアクセスされている記事はポリコレの影響でしずかちゃんのお風呂シーンが消えたというやつなのだが、本作はそういうシーンはなかった。

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その代わりドラえもんのび太のお風呂シーンはあった。しかもお風呂が思わぬ形でカギになっている。

 そのお風呂といい、あらかじめ日記とか最古の楽器の話とか、伏線がたくさん貼られていて小気味良い。お風呂は明らかに伏線ぽかったが、最古の楽器が効いてきたときは「ほ〜」と思った。

 復活したファーレの殿堂のデザインとそれが地球をバックに浮んでいるビジュアルも素晴しいし、「五人のヴィルトゥオーゾです!」と紹介されてレギュラー陣が登場したところなんかも感動してしまったのだが、それにとどまらずもうひと展開あってさらに感動してしまった。地球全体で合奏するという壮大なアイディアには恐れ入った(演奏している曲に「夢を叶えてドラえもん」のメロディが入っているのにもまた感動)。『逆襲のシャア』を思い出しもした。『逆襲のシャア』はラストで精神論というかスピリチュアルになって当時のファンでがっかりした人もいたというが、本作はひみつ道具を使った論理的な展開で、お話として反則感がなくて良かった。

 ミッカちゃんはかわいかった。声もかわいい。しかし日本のやかましい都会に来たミッカちゃんが、本当にポジティブな印象を持てたのかは気になった。ミッカちゃんが長渕剛みたいに「歌の安売りするのやめろ」とか言い出さなくてよかったなあ。

河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその13 「郵政民営化の物語」ふたたび

 ↓これの続き

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 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 ようやく「その8」で予告した『魔女の宅急便』論批判に戻れる。これは本当に問題が多いので、さらに何回かに分けて書く。けっこう前に予告していた「新自由主義」概念の曖昧さ批判がようやく出てきまっせ。

 まず、前に引用した次の箇所を見ていただきたい。

 それを前提として、キキの労働がどのように描かれているかを見ていくと、キキが魔女見習いとして暮らすことになった町で、みずからの職業として選ぶ宅急便というものが、クリエイティヴ自己実現をともなう職業として描かれること、そこにこの物語が郵政民営化の物語であることの真の意味──これが新自由主義的でポストフォーディズム的な物語であるということ──があると分かるだろう。(114ページ)

郵政民営化の物語であることの真の意味」は読んでいってもよくわからない。しかし噛み砕いてみるに、河野先生はおそらく次のように考えている。「新自由主義の前にはフォーディズム労働というのが主流であった。これは単純で肉体的な労働である。対して新自由主義社会ではポストフォーディズムとなり、前回までで取り上げたようなアイデンティティを活用する労働や感情をコントロールし感情に訴える労働、クリエイティヴな労働が主流となる。郵政民営化はその象徴で、『魔女の宅急便』もポストフォーディズムの労働を描いたものである。」

 なぜ私が「郵政民営化の物語」という語が直観的にわからないと感じたかというと、郵政民営化アイデンティティや感情やクリエイティヴィティにまつわる労働の象徴とは思えないからだろう。郵政民営化はそんなものではなかったように思う。河野先生とその元ネタの三浦玲一は、宅急便という仕事と郵便という事業が似ているために過剰に関連を見出そうとしてしまっているようだ。また郵政民営化と『魔女の宅急便』公開の時期は大きくずれているので、アナロジーに無理があるのではないか。

 郵政民営化は確かに日本における新自由主義の象徴だが、それは本書で論じられる新自由主義観と食い合わせが悪いのだろう。そもそも、郵政民営化を知っている日本人の私からすると、新自由主義社会でアイデンティティや感情やクリエイティヴィティを使った労働が主流になるという議論が疑問である。郵政民営化のような新自由主義がある一方で、本書で論じられているようにアイデンティティや感情の労働こそ新自由主義だという議論もあるらしいが、まったく別物に思える。これは「新自由主義」概念の曖昧さからくるものだろう。

 まだまだ『魔女宅』論批判が続きます。

 

 追記:↓続きはこちら

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河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその12 「アイデンティティの労働」の定義らしきもの

 お久しぶりです。↓これの続き

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 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 前回は「アイデンティティの労働」なる概念がよくわからないと書いたが、定義らしきものが出てくるところがあるので引用する(アイデンティティの労働という言葉が何度も出てきてから登場する定義だが)。定義らしきものも、三浦玲一の著書からの引用で登場する。『村上春樹ポストモダン・ジャパン──グローバル化の文化と文学』という本からの引用である。

三浦玲一はアイデンティティの労働を次のように定義する。

  アイデンティティの労働は、ポストモダンにおける(旧来の型の労働の隠蔽としての)規範的な労働の形態である。それは、先進国における新しい経済モデルとしての、クリエイティヴ経済という(ポストモダンな偽)概念から説明され、正当化されようとしている。そこに「生産」はなく、われわれ自身のなかに内在するクリエイティヴィティの実現こそが「富」を産むのである。それは、自己実現こそが富になるというユートピア願望の表明である。(九九頁)

 ここで三浦が、アイデンティティの労働というビジョンが、あくまで旧来の型の労働の隠蔽なのであり、クリエイティヴ経済というのは(ポストモダンな偽)概念であると述べていることに注目しよう。それらは、客観的な真実ではなくイデオロギーであり、苦行としての労働を隠蔽するものなのである。(110−111ページ)

 やはりこれも定義になっているとは言い難い。「クリエイティヴ経済」などさらなる不明な概念が出てきて説明になっていない。

 「隠蔽」というのは誰がしているのだろう? 何か巨大な力が大衆から真実を隠そうとしているという陰謀論だろうか。また「説明」や「正当化」というのも誰がしようとしているのかわからない。時代ごとの風潮みたいなものを擬人化しすぎに思える。「ユートピア願望」というのもそうで、誰が願望しているのかわからない。

 この後で河野先生は「一言で言えば、これはやりがい搾取の構造である」と述べている。何がどうやりがい搾取の構造なのか、やりがい搾取の「構造」とはどんな構造なのか、これもわからないがそれはさておき。やりがい搾取という言葉は本書で何度か出てくる。私には河野先生は「やりがい」と「やりがい搾取」を簡単に結びつけすぎに思える。やりがいを持って仕事をして、特に搾取されているわけではない、という人も多いだろうが、それを考慮していないように思える。これについては次回以降。

 今回はこのへんで。

 

 追記:↓続きはこちら

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偉人の古典を研究するタイプの哲学はいずれ哲学ではなくなるんじゃないか

 一年半くらい前に植村玄輝先生が紹介して話題になっていた論文を今さら読んだぞ!

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/0020174X.2022.2124542

哲学史の研究は哲学の研究に不要と主張するHanno Sauer, "The End of History"という論文。といっても私は哲学の論文、しかも英語の論文を読むのは苦手なのであまりわかっていないかも。植村先生のブログに書いてある要約を参考にした。

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 哲学史、もっというと偉人の古典を研究することは哲学研究において重要とされてきたが、そうでもないと言う。この論文で繰り返し述べられるのは、古典研究を擁護する議論は「古典の研究が哲学研究において特に重要だということを論証できていない」という議論である。これはなるほどと思った。それと自然科学では哲学みたいなことはしない、という議論もよく出てくる。これは自然科学と人文科学の違いを強調したがる人には受け入れ難いだろうが、私は共感する。

 植村先生のブログでは端折られているがおもしろかった点もいくつか。2節の要約で植村先生は

哲学史研究に取り組むことは過去の哲学と同じ間違いを避けるために役立つという主張は、哲学的歴史主義を擁護することに成功していない。なぜなら、過去の哲学と同じ間違いをしたくなければ、過去の哲学に近づかないのが一番だからだ。

とだけ書いているが、過去の哲学を研究した結果それと同じ間違いを犯してしまうメカニズムは論文にそこそこ詳しく書いている。ヘーゲルの研究をする人はヘーゲルの思想にいくらか共感しているのであって、そのためにヘーゲルみたいに考えてヘーゲルと同じ間違いをしがちなのである、みたいな感じ。また同じ間違いを避けるためにその古典を読むというのも、よく考えればおかしな話である。何かを得るために読むものなので。というのが聖書を読むことを薦める人に例えて論じられていた。

 もう一つ、3節で昔の哲学者は言うほどすごくないと論じられているところにもおもしろいことが書いてある。道徳を学ぶには道徳的に優れた人の言うことを聴きたいが、古典的な哲学者は大抵はレイシストだったりセクシストだったりする、とか。なるほどである。

 植村玄輝先生はフッサールなどの古典も現代的な現象学も両方研究している人なので、メタ的な立場としては中立だと思う。これ以降この論文についていろいろ書いておられるが、まだ読んでいないので、読んだらまた何か書きます。

uemurag.hatenablog.jp

 で、私はというと、私は哲学研究室にはいるがやっていることは殆どが形式論理学なので哲学とは事情が違う。いちおう書いておくと、研究している線形論理という理論は1987年に始まったもので、それ以前の論文を研究のために読むことはほぼない。けれど哲学の(易しい)本を読むことや他の人の議論を聴くのは好きである。

 研究室の同僚や先生を見るに、古典をあまり読まないタイプの現代哲学をやっている人は多い。古典を読んでいる人は現代哲学というよりは哲学史としてやっている人が多いと思う。「この哲学者はこういう思想だとして現代哲学で取り上げられるが実はそうではなくて〜」というパターンもよくある。これは哲学史の良い研究例だと思う。もちろん現代哲学も哲学史も両方やっている人もいる。古典の研究をする人としない人がどちらも同じ研究室にいるというのはそれなりに良いことだとは思う。研究手法として別でも、有意義なコメントくらいはできるので。

 私がつねづね問題だと思っているのは、(主に西洋の歴史上の)偉人の名前を執拗に持ち出す人である。(主にカタカナの)固有名を偏執的に好む人というのがいる。「〇〇はこう言ったがそれに対して□□は〜」とか「これは極めて〇〇的である」とかばかり言ったり書いたりして、それで何か主張した気でいる人である(〇〇や□□にはカタカナの名前が入る)。こういうのは哲学ではないというか学問ではないと思う(哲学史研究でもないと思う)。権威に基いた論証に近く、議論になっていない。偉人カードバトル、偉人スタンドバトルといった趣。本や論文でもこういうことばかり書いている人もたまにいる(と思う)。

 もう一つ。例えば道徳や正義を論じたかったら、古典を読むより心理学とか経済学を勉強した方が有意義だと思う。この点はSauer先生に激しく同意する。古典を読むのは歴史的な事実や経緯を学ぶ・研究するのに重要だが(にしても古典を急に直接読むだけでは得るものは少なそうだが)、現実の教訓を得るのは難しいのではないか。

 Sauer先生の論文みたいな議論がもっと広まって、偉人の古典の研究というのは「哲学」の研究とはみなされなくなっていくんじゃないかと思う。とりあえずスタンドバトルと経験科学の知識を欠いた哲学はやめてほしい。

キミは『今、そこにいる僕』を見たか?(隠れた超名作アニメ)

 トゥイッターで絶賛している人がいて気になって見てみた。あまりに素晴しい作品で驚いてしまった。何故あまり有名じゃないのだろうと思ったが、まあ残酷な物語なので、人にすすめられるものではない。

 1999年にWOWOWで放送したらしい。この頃のCSは挑戦的なアニメを多く放送していた。本作は挑戦的すぎてもちろん万人向けではない。暴力や殺戮が頻出しレイプの描写もあり現在のアニメでは不可能だろう。とあるキャラクターの最後の選択など人によっては受け入れ難いと思う。しかしそうした受け入れ難い描写と物語を誠実に描いた稀有な作品である。

 アナログ制作晩期の作品であり、失われてしまったアニメの美しさを感じる。音楽も異様に美しい。そういうところにも茶化しに逃げない強さを感じた。

 監督の大地丙太郎氏は私などは『おじゃる丸』『すごいよマサルさん』のイメージが強い。普段ギャグやコメディばかりやっていてそういう茶化しを入れ飽きている(と言ったら悪いが)からこそ、全編にわたって誠実に描き切ることができたのだろうか。

 というわけで、現代ではあまり広まりすぎてほしくもないのでオススメはしづらいが、もう少し見られてもよい作品でもあると思う。傑作です。