曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

おすすめの記事

 当ブログは論理学を中心とした哲学・数学・計算機科学の勉強記録と、アニメの批評・感想を中心に書いております。おすすめの記事は以下です。

 

cut-elimination.hatenablog.com

 アニメにもジェンダーフェミニズムを考えるうえで示唆に富んだ作品はたくさんありますよ、という記事です。いろいろな作品を紹介しています。本当の目的はアニメ一般に対する「前時代的」という批判への反論です。私の調べが進むにつれてアップデートされていきます。

 

 私の研究対象である線形論理というのの入門解説です。

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 藤井聡太先生の脳内には将棋盤がないという説を、様々なインタビューや棋士の証言をもとに検証しています。

 

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 マンガ『チェンソーマン』第43話に出てくるロシア語の歌を翻訳しています。元ネタはなんなのかもちょいと考察しています。

 

あとはカテゴリーから見てみてください。

『クラユカバ』なる漫画映画を観てきた!(アニメ映画を作るのは難しい)

 なんかよくわかんなかった!

 腰が痛いのと睡眠不足で若干観るのが辛かったが、短いのでなんとかなった。

 ↑神田伯山ていつもこの角度だな!

 小規模制作のアニメーション映画だが、国際映画祭で評判で、凱旋・シネコン上映となったらしい。監督の塚原重義氏が自主制作していた短編アニメーションシリーズの世界観がベースにあるらしい。不勉強でよく知らなかった。私にとっては謎多きアニメである。

 短編連作がもとということのだが、一本の長編映画を仕上げるのはやや難しかったんかなという印象。

 とにかくディテテールに光るもののありまくる作品である。キャラクターやガジェットのデザインは良いし、神田伯山の演技も良いし、会話のやり取りとかサイコロ博打をモチーフにした台詞など脚本の工夫も凝らされている。

 けれども全体としては散漫な印象なのである。短い上映時間に詰め込みすぎたか、もう少しアイデアをじっくり見せる映像的な余裕が必要だったのではないか、という感じ。とかくアニメ映画を作るのは難しいのだなあと思った。

 一本のアニメ映画としてはあんまりなのだが、塚原監督の頭のなかの壮大な世界の一部を垣間見るためのもの、と割り切ればよいのかもしれない。同時公開の『クラメルカガリ』や短編シリーズも観たいところ。

最近読んだ本を紹介しちゃおうかな(数学文章作法、学振、理科系の作文技術)

 また書き方のノウハウ的な本をいろいろ読んだので紹介するぜ!

結城浩『数学文章作法 基礎編』

 「さほう」ではなく「さくほう」。

 結城浩先生は『数学ガール』シリーズを書いている作家である。ほかにプログラミングや情報数学の入門書も書いている。私もいくつか読んだことがある。本書はそんな結城先生が書いた文章作法の本。最近は論文の書き方的な本をいろいろ読んでいたが、本書はもっと広い範囲の文章に対して当てはまる書き方指南である。

 本書は「読者のことを考える」というたった一つのテーマを繰り返し説いている。読みながら私は反省しきりであった。読者のことを考えていないせいで変な感じの使い方とかして怒られたりしたのだろうな〜とか。

 そういった思想的な面だけでなく、実践的なアドバイスも豊富。たとえば「PはC上にある」と書くよりも「点Pは曲線C上にある」と書いたほうがわかりやすい、といったような。今後も何度も読み返して己の文章の質を向上させる所存です。

結城浩『数学文章作法 推敲編』

 『基礎編』からさらに進んで、推敲のみに焦点を当てた続編。この本も推敲に際しての精神の持ちようからかなり具体的なアドバイスまで豊富で良いです。特にレビューの頼み方の解説が参考になった。というかいつか参考にしたい。

大上雅史『学振申請書の書き方とコツ』

 大学院生必読の書! 実例も豊富! 頑張ります!

木下是雄『理科系の作文技術』

 論文執筆指南書のクラシック。不朽の名著。

 といってTeXの普及など執筆環境が時代とともに大きく変ったので古くなった部分もある。しかし論文を書くうえで根っこの部分は変らない。

 パラグラフライティングやトピックセンテンスといった当時は珍しかったであろう概念が解説されている。そういうのはいまでは大学のライティングでも習うが、本書はダメな文章の添削例もあって一層わかりやすい。

 また「逆茂木型」の文(章)という独特の用語も出てくるのだが、これには唸った。これを意識するだけで文章が格段に良くなるのではなかろうか。

河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその18 セカイ系問題とシャカイ系

 ↓これの続き

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 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 第四章157ページで「シャカイ系」なる言葉が出てくる。これは杉田俊介先生の以下の記事でも出てきた言葉であるが、本書が初出のようである。

gendai.media

もちろん「セカイ系」との対比で作られた言葉で、セカイ系みたいな閉じた世界ではなく社会を描く作品とのことらしい。河野先生の想定では『踊る大捜査線』や『Doctor-X』のような組織をモチーフとした作品がこれに当たるとのこと。

 私はそもそも「セカイ系」という概念の妥当性を疑っている。それについては↓の記事を参照。

cut-elimination.hatenablog.com

本書もこの批判が当てはまる。大きな問題は、作品をカテゴライズしより良く理解するために概念を導入してはいない、という点にある。それを適当に済ませて観念的な議論にそそくさと移行してしまっている。本書のセカイ系およびシャカイ系論も、どういう特徴を持ったどの作品がそれに当てはまるのかという議論が十分でない。

 本書ではその後、個々の作品、というか特に『エヴァ』についてセカイ系やシャカイ系やポストフェミニズムとかいった切り口から述べられている。これについては次回以降で。今回述べたような、作品にそうした概念を当てはめる妥当性から疑って検討していく。

人はなぜ子どもを作るのか?

 人はなぜ子どもを作るのか? 考えてみるとけっこう謎である。(本記事では答えは出してないよ。)

 当ブログでは「反出生主義」についてちょくちょく書いてきた。子どもを作るべきではないという思想である。しかし「反」を掲げる以前にそもそも人はなぜ子どもなんか作るのだろう?

 たいていの生物と違い、人間が子どもを作るのはなかなか大変な意思決定の末のことである。本能的な欲求の赴くままセクロスをして身籠って出産するわけではない。子どもを育てるのは大変だとわかっているし、出産までのプロセスも大変である。なぜわざわざそうと知っていて子どもを作りにいくのだろう。

 まず夫婦が子どもを欲しいと思うわけだが、なぜ欲しいと思うのだろう? これがそもそもそんなに自明ではない。どういう動機で子どもを欲しがるのか(どこかに調査があるかもしれないので知っている人は教えてください)。まず思いつくのは「かわいいから」である。昔だったら「働き手にするため」とかがあったかもしれない。もう少し現代にもありそうな観点だと「老後に養ってもらうため」とかか。それと「常識だから」「大人のつとめとして」というのも大きそうである。いずれにせよそれほど「これだ!」とハッキリするものはない。

 さて、子どもが欲しいとなったとして、ではそれを作るのはなぜだろうか? 普通に考えて、欲しいとしてそれをガチで作りにいくだろうか? カレーが食べたいからカレーを作るというのとは訳が違う。人間の子どもを作るのだから。もうちょっと専門的なことを言うと、個人の「欲しい」という欲求を満たすための(単なる)手段として子どもを作るというのはカントの定言命法に反していてアカンのではないか、というような議論が↓の本にある。

 人間は何十年も生きて、当然その人生のなかには辛いこともある。それをわかっていて、上記のような理由から「欲しい」と思っただけで作るだろうか? 本当に「欲しいから」という理由で作ってしまうものなのか、私には疑問である。

 この私の感覚は、実は現代の多くの国の多くの人びとの間で実は共有されているんじゃないかと睨んでいる。だから世界的に少子化の国が増えているじゃなかろうか。少なくとも「ある程度の年齢になったら結婚して子どもを作る」という常識はすでに多くの先進国で崩壊していると思う。

キミは『ど根性ガエル』第146話(第73回Bパート)「かんかんアキかんの巻」を見たか?(「純粋アニメ」の世界)

 アニメを論ずることに興味がある人はぜひ見るべきだと思う。

 『ど根性ガエル』はこの「かんかんアキかんの巻」が有名なので以前にこの回だけ見たことがあった。最近同作を最初から見ていて(作画史の勉強のため。作画はどの回もハイレベル)、この回に辿り着いてまた見返した。流れのなかで見るとやはり異質な回だとわかる。『ど根性ガエル』は話や会話のテンポが良いアニメだが、この回は「間」をたっぷりととっていて、そこが独特なのである。

 この回は、ひろしの蹴った空き缶がゴリライモに当たり、ゴリライモが復讐のためにひろしに缶を当てようとするもなぜか当たらず子分のモグラに当たってしまう、それを繰り返す、というそれだけの話である。なぜ空き缶がひろしに当たらないのかもわからないし、そもそもなぜゴリライモが当てることに執着し続けるのかもわからない。不条理劇のように進行していく。

 後半では堤防で釣りをする町田先生の様子が何度か挟まる。町田先生は「こんな川で釣れるはずがない」とわかっていながら釣りをしているらしい。最後に町田先生は空き缶を釣り上げて笑う。空き缶に執着するゴリライモと対比的に、空き缶という空虚なものを釣り上げて笑う町田先生は、悟りのような境地を暗示する。

 また、シリーズを最初から見たおかげでわかったことがある。「かんかんアキかんの巻」で何度も登場するコンクリート堤防は、この回のAパート「ゴリライモが幼稚園に入るの巻」で(初ではないかもしれないが)登場し、以後何度も出てくるようになっている。この構造物のスケール感がレイアウトをより豊かにしている。美術も上手い。

 当ブログは常々アニメ批評を批判しているが、こういうアニメこそ批評されるべきだと思う。「重大な(と考える)社会問題に対して良いスタンスをとっているから良い作品だ」のように批評というより「判定」みたいな文章が溢れる世の中であるが、そのような判定を拒む複雑さを持ち、しかし確かにおもしろい、それが「かんかんアキかんの巻」である。私は「かんかんアキかんの巻」こそ純粋アニメだと思う。「空き缶を蹴って当てる」というものすごく単純な主題を扱っていながら、脚本・演出・作画・美術といったものの妙で名作に仕上げている。純粋アニメの豊かさに応えられない批評はなんと貧しいものだろう。

 まるで空き缶のように、見たら吸い込まれそうになる妙な魅力を持った回である。皆さんも見て語りましょう。

 

 ↓こちらのブログ記事の批評も素晴しいので参照。

kasutera2nd.hatenablog.com

 ↓『アニメスタイル』小黒さんによる紹介も参照。

ど根性ガエル』の146話「かんかんアキかんの巻」は芝山努小林治コンビが、2人で絵コンテと原画を担当(ただし、ノンクレジット)した傑作。演出もレイアウトも作画も素晴らしい。すでに芝山さん達の興味が「情緒」に行っている点にも注目したい。 #もっとアニメを観よう

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』とかいう漫画映画を観てきた!(あのちゃんは現代のスター)

 あんまりおもしろくなかったのだがまあ前編だしこんなもんでしょう。

 後章が延期(!)されて2ヶ月も先になるので、もっと後で観ようかとも思ったが、あまり客入りが良くないようですぐに消えそうなので、急いで観にいった。回数は減って箱も小さかったが、それなりに入っていた。

 雪はかなり溶けました。

 原作は未読。私は浅野いにお作品は短編・中編しか読んだことがない。しかし総じておもしろい印象。

 原作の連載期間は2014-22年とのこと。始まった頃はまだ大震災や原発事故の記憶が色濃く残っていたのでしょうな。災害による日常の崩壊や科学・社会への懐疑がテーマとしてある。しかしコロナウィルスやワクチン懐疑論を経たいま、本作は別なアクチュアリティも獲得してしまっている。この点は興味深かった。

 印象として、とにかく絵が地味である。工夫ととれるのは、いにお先生っぽい背景の処理くらいで、なんというか映像としてつまらなかった。もっとサイケデリックな感じを期待したが。キホが死んだ後のみんなが泣くシーンとかあまり感動的でなくて、もっとやりようがあったような気がしてならない。クリスマスパーティのところで5人で抱き合うシーンなんかも漫画のコマをまんま持ってきた感じで、リズムが映像的でなく、下手な印象を受けた。円盤からひらがなのようでひらがなでない文字が出ているのは、あれは原作が漫画なので「言葉ならざる言葉」を表現するための技法としてそう描いたんじゃないかと思うのだが、音の出る映画であんな風に描くのはどうなのか。アイデア不足じゃなかろうか。

 もうちょっと書いとくと、原作の問題かもしれないが、メカやミリタリーへの愛というか興味を感じない。平和な街に自衛隊や戦車、みたいな構図はアニメ好きならば『機動警察パトレイバー2』を連想するだろう。同作は日常に兵器という不穏なものが侵入する感じを見事に描いたアニメ史上の傑作である。本作を観て比べることで、やっぱり押井守ってすごいんだな〜と思った。

 とはいえ前編なわけで、映像的におもしろいところはまだ後編にとってあるのでしょう。と思うがだったら延期などせず迅速にお届けして欲しかったところ。まあ頑張ってクオリティを上げてもらいたい。

 以前観た『ハイキュー!!』映画は妙に短かったが(実際まあまあ短い)、本作は長く感じた(実際まあまあ長いが)。

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たぶん「ここがクライマックスかな」というところからやたらと長い回想(?)に入るからだろう。これは原作がそうなんだろうが、構成があまり映画っぽくないと感じた。脚本は傑作も駄作もとにかく書きまくっている吉田玲子氏の模様。傑作も駄作も書いている人だから脚本家の力量の問題かどうかは判断しかねる。

 けっこうディスったが、あのちゃんは天才だと思った。演技も上手いし、エンディングの歌も上手い。というかデスボイスが上手い。いくらちゃんがあまりデスボイスが出てないので余計に。あのちゃんは現代のスターじゃなかろうか。

 いくらちゃんが『竜とそばかすの姫』に出演していたことを覚えているのは私くらいのものでしょう。

アニメ『葬送のフリーレン』見たよ(力入りすぎ)

 おもしろかった。

 斎藤圭一郎監督作品はけっこう見ている。『ぼっち・ざ・ろっく!』は絵はいいけど声優の演技がアカンと書いた。

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大学時代の自主制作アニメへの評価も辛め。

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しかし本作は良かった。

 レイアウトというか空間設計が巧みである。定期的に物凄いロングショットが入り、キャラクターよりも美術を存分に見せる。世界の豊かさを大事にしている。いわゆる「ナーロッパ」的な世界なわけだが、「なんとなく中世ヨーロッパ風」ですまさず、建物や自然をしっかりと描いていて好感が持てる。戦闘シーンの作画ももちろん良いわけだが、それ以上にロングショットの美術が印象的だった。原作はちょっとしか読んでいないのだけど、原作は空間や動きの描写があまり上手くないっぽく、そこをしっかりと補っている模様。

 声優の演技も妙に落ち着いていていい。原作がそもそも落ち着いているのだろう。誰かがなにかすごいことをやったときに周りが記号的に大袈裟な反応をしたりしないのが良い。

 しかしテレビアニメなのに作画枚数ほか力を入れすぎじゃあないだろうか。私はいま1972年の『ど根性ガエル』を見ているが、いろいろ省力技法を使いつつもアニメとして豊かである。金と時間を掛けて良いものを作るのも大事だろうけど、50年前にはあった技術が失われているような気もする。

 まあ斎藤監督にはこれからも期待です。