この記事はアニメやフェミニズム・ジェンダー論にあまり詳しくない人や学生にとって何かヒントになりはせんかと思い書いております。
本記事では、ジェンダーやフェミニズムを考えるうえで良い題材になりそうなアニメを、いろいろとテーマごとに紹介していく。
アニメはフェミニストからよく叩かれているという印象がありますでしょう? しかしジェンダーやフェミニズムをよく考えて作られているアニメというのも存在するのである。まずそういうアニメを紹介する。
また、叩いているフェミニストも、なんとなくの印象で叩いていてよく作品を見ていないということが往々にしてある。しかし実際に見てみると印象が違ったりするものである。そうなりがちなアニメも紹介したい。
それと時代とともに女性やセクシュアル・マイノリティのキャラクターの描かれ方が変化しているのがアニメを通して判るということもある。そういう題材になるようなアニメも紹介しまっせ。
というわけでなんかそういう知見が得られそうな作品を集めていくのだけれど、噂は聴くけど見ていない作品とかアニメは見たけど原作は見ていないからアニメならではのことが言えないとかそういう作品もあります。見たり読んだりするたびにアップデートしていく所存。
必見の作家
ジェンダー論やフェミニズムを専攻していて日本文化を論ずる人ならば絶対に見ておくべきアニメ監督が二人いる。それが幾原邦彦氏(1964〜)と高畑勲先生(1935〜2018)である。幾原氏は1990年代から監督として活動しはじめ、自ら(あるいはチームで)原作を手掛けたオリジナル作品を多く作っており、国内外で高く評価されている。高畑先生は言わずと知れた日本アニメ史に残る巨匠であるが、言わずと知れたとか言っても若い方はピンとこないかもしれないので、あとでちゃんと解説する。スタジオジブリの創設者の一人である。
彼らはジェンダーやフェミニズムに強い関心を持っている(持っていた)と思われ、作品から監督の思想を考えるのも良いし、その受容史・影響史を調べるのもおもしろいだろう。けれども私としては、なにより彼らの作品から性の多様性とか新鮮な女性像とかを学びとっていく姿勢が必要かと思う。
幾原邦彦監督作品
幾原邦彦氏はもともと東映動画(現・東映アニメーション)の演出家で、1993年の『美少女戦士セーラームーンR』が初監督作品となる*1。セーラームーン・シリーズはもともと佐藤順一氏が監督だったが、第2シリーズの「R」の途中から幾原さんに交代する。セーラームーンの監督を『S』『SuperS』と担当した後、1997年にオリジナル作品の『少女革命ウテナ』を監督する。これ以降の作品はすべてオリジナルである。『ウテナ』劇場版ののちは長く沈黙していたが*2、2011年の『輪るピングドラム』を皮切りに『ユリ熊嵐』『さらざんまい』というかなりアクの強いアニメを作っている。
宝塚や寺山修司に影響を受けた絢爛豪華かつアングラな世界観、シュールなギャグ、珍妙なキャラクター、虚構性を強く意識した演出など、ひと目で幾原作品とわかるような個性を持った監督であり、しかも当人のルックスやファッションもヴィジュアル系みたいでカッコイイ。そして多くの作品で多様な性、ジェンダーをモチーフとしており、特にセーラームーンやウテナが日本のサブカルチャーのジェンダー観に与えた影響は大きいものと思われる。
セーラームーンS(1994〜95年、テレビシリーズ)
セーラームーンの第3期シリーズである『セーラームーンS』には、セーラーウラヌスとセーラーネプチューンという新戦士が登場する。本名はそれぞれ天王はるかと冥王みちるという。はるかはふだんは男装をしており、一人称も「僕」である。今ではキャラクターの属性としてよくあるが、当時は珍しかったはずである。また、はるかとみちるはどうも恋愛関係にあって交際しているっぽい。直接的な描写はないが、友情以上の感情を互いに抱いていることは明らかで、こういうのも先駆的と思われる。彼女らはいつからかは知らないが「百合界のカリスマ」と呼ばれるようになった。
後半ではセーラーサターン土萠ほたるが登場する。黒髪でおかっぱっぽい髪型、和風で清楚、病弱でありながら実は世界を滅ぼすほどの強大な力を秘めている、と萌え要素てんこもりである。実は彼女の名前こそが「萌え」の語源とも言われている(本当かどうかしらないが)。これも当時としては斬新なキャラクター造形だったらしい。
セーラームーンSはこのように女性キャラクターの幅を著しく拡げた作品と思われる。これで何かに「目覚めた」人も多いのではないだろうか。ちなみに原作は未読です。すみません。読んだら追記します。このままだと原作成分と幾原テイストの違いがわからないので。
セーラームーンSuperS(1995〜96年、テレビシリーズ)
これもフィッシュ・アイというアニメ・ジェンダー史においてそこそこ重要なキャラクターが出てくる。ホークス・アイ、タイガーズ・アイと共に「アマゾン・トリオ」なる敵キャラの一人である。
アマゾン・トリオは3人とも男性声優だが女性的な言葉遣いをする。そして一般人を誘惑してその人の体内(?)にある夢の鏡というのを覗くというギミックが毎回あるのだが、ホークス・アイとタイガーズ・アイは男の格好をして女性ばかりを狙う。どうやらこの二人はいわゆるオネエ言葉を使うだけでヘテロ・セクシュアルの男性らしい。体格も男っぽい。
対してフィッシュ・アイは、男性愛者であり、性自認もよく判らない。いちおう体つきは男っぽいが、顔も声もかなり女性的である。声は男性声優の石田彰氏が演じているが、なんか凄い技術で女性みたいな声を出している。またフィッシュ・アイは魔法で女体化して男性に迫る事もあるしそのままで男として迫る事もある。
おまけ セーラームーン セーラースターズ
幾原氏に代わって五十嵐拓哉氏が監督の旧アニメ・セーラームーン最終シリーズの「セーラースターズ」には、またセーラースターライツという複雑なジェンダー・セクシュアリティの戦士が登場する。普段は男なのだが、変身すると体つきも口調も女になるのである。その内の一人のセーラースターファイター・星野光(せいやこう)は主人公のうさぎに恋をする。けっこう女子人気があったらしいが、変身後の人気はイマイチの模様。以下のランキングを見よ。こういうのを調べるのも楽しい。
少女革命ウテナ(1997年、テレビシリーズ)
この作品は文字通り革命である。話のほとんどが意味不明なのであるが、とにかくすごい。
主人公の天上ウテナは女子高生であるが男装している。しかし心が男というわけではない。髪も長い。気が強い性格だが、言葉遣いは男言葉というほどではない。でも一人称は「僕」である。男になりたいとか男のふりをしているわけではなく、単に「王子様になりたい」というのがウテナのモチベーションである。そんで姫宮アンシーというヒロインを巡って生徒会の人と決闘する。姫宮は「薔薇の花嫁」で、「世界を革命する力」があるとかないとか。前半のストーリーはこんな感じである。
何を言ってるのかわからないかもしれないが、そういうアニメなのである。男性性とか女性性に囚われないのが幾原作品の特徴といえる。また、そうした物語のなかで同性愛とか近親愛とかはたまた略奪愛とか、多様な形の愛が提示される。そんで薔薇の花嫁というワードがけっこう深い象徴的意味を持っていたりして、王子様とお姫様とかそういう物語へのアンチテーゼなのだなというのが後半になんとなくわかってくる。なのでディズニープリンセス的なのが好きな人がどう思うかとかは興味がある。ディズニーを題材にジェンダーを論じている人は、ぜひ『ウテナ』との比較とかもお願いしたい。
詩的で謎めいた様々なキーワード、影絵や演劇的装飾を用いた実験的な舞台設定に演出、シュールなギャグ、そしてウテナの新鮮なキャラクター性など、魅力が満載の作品である。『エヴァンゲリオン』が大ヒットしていた当時の、オリジナルアニメの勢いが窺える。
なお、テレビシリーズを再構成した劇場版『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』があるのだが、こちらはさらに輪をかけて難解かつ前衛的である。
他の監督作品の「輪るピングドラム」「ユリ熊嵐」「さらざんまい」もこうしたモチーフを大なり小なり継承している*3。
↓まだ読んでない。
高畑勲監督作品
高畑勲は、日本で大規模なアニメが作られだした草創期から携わってきたパイオニアの一人であり、『アルプスの少女ハイジ』や『火垂るの墓』といった誰もが知っている名作の監督でもある。東映動画で演出家となり『太陽の王子ホルスの大冒険』を撮るも、制作の遅れと興業不振の責任をとって降格したりスタジオを出て『ルパン三世』や『パンダコパンダ』を作ったりする。東映動画の後輩である宮﨑駿とはお互いを認め合っており、『ハイジ』や『母をたずねて三千里』では駿を右腕の如く重用した。駿が監督作品『天空の城ラピュタ』を制作する頃に鈴木敏夫らとともにスタジオジブリを設立、それ以降は高畑先生もジブリで監督作品を作っていた。
特にインタビューなどでも語っておられないと思うのだが、高畑先生はフェミニズムにかなり関心があったと思われる。しかしそれは特別なにかそうなるきっかけがあったからではないかもしれない。高畑先生という人は非常に教養の深い方であり(東大卒だし!)、作品のテーマの掘り下げのためにものすごく勉強をする。作品やそれを届けるべき社会と向き合ううちに自然と作品の傾向がそうなっていったとしても不思議ではない。高畑先生の思想は『アニメーション、折りにふれて』という著書を読むとよく解る。
太陽の王子ホルスの大冒険(1968年、劇場作品)
いわゆる東映長編漫画映画というのの一本。朝ドラの『なつぞら』でこの作品の制作時の実話をもとにした話が展開されていた。高畑先生のほか、森康二、大塚康生、奥山玲子、小田部羊一、井岡雅宏、宮崎駿といった日本のアニメの礎を築いた人々が参加した本格的作品で、アニメ史に興味があるならば必見である*4。
ストーリーは北欧神話とアイヌの伝承がベースにあるらしい。ホルスという英雄的な少年がグルンワルドという悪魔と闘う話なのだが、民衆の反発にあったりして見ていてけっこうイライラする。しかしこういうところが高畑イズムである。
本記事において特筆すべきは、グルンワルドの妹のヒルダという少女のキャラクター性である。実は本作は、後で取り上げる『雪の女王』というソ連製アニメの影響を強く受けていると思われる。ヒルダは名前からして『雪の女王』のゲルダに似ているし、他にもクリーチャーの造型に影響が窺える。『雪の女王』の少女ゲルダは、カイという少年を救う決意をして冒険する。そういう自ら選択して闘う少女みたいなのが『ホルス』のヒルダのキャラクターにも現れており、さらに後のジブリ作品にも引き続き影響していったと思われる。
アルプスの少女ハイジ(1974年、テレビシリーズ)
言わずと知れたテレビアニメ史上の傑作であるが、ちゃんと通して見たことのある人は意外と少ないのではないかと思う。ヨハンナ・シュピリという作家の19世紀の文学作品が原作であるが、未読です。ざっと見たところそこそこ原作に忠実に作られているようだが、原作は長い中編か短い長編という程度の長さのところを全52話にしているわけだから、かなりディティールを足している。その徹底した生活描写、自然描写、人物描写のリアリティが本作の最大の特徴である。場面設定・画面構成という珍しい役職を設けてそれを宮崎駿に担当させている点や「キャラクターデザイン」という役職を初めて導入した点など制作上の画期的な点もいろいろあるのだが、まあそれはまたの機会に論ずるとして、とにかく駿の功績による空間のリアリティーと小田部羊一氏デザインによる普遍的なかわいらしさのあるキャラクターは素晴しく、日本アニメの現状を見るに当時のような水準のテレビアニメはもう二度と作られることはないのだろうなあと思う。
話を戻そう。本作を現代の視点から見ると、そのジェンダー感覚のバランスの良さに驚いてしまうのである。半世紀ほど前の作品で舞台も19世紀であるが、ジェンダー・ロールとか男尊女卑的なセリフがほぼない。ペーターが女の子であるハイジとつるんでいることを村の子にバカにされたりするのだが、それが子どもらしい見栄からくるもので、特に女性蔑視とかは感じない。後述するが、同時期に放送されていた超未来が舞台の『宇宙戦艦ヤマト』とは大違いである。
高畑先生はこれ以降断続的に、女の子や女性を主人公として、自由や自律やそれに伴う苦悩をテーマとした作品を作る。『ハイジ』の第1話でハイジが厚着した服を脱いで野を駆けていくシーンがあるのだが、これは『かぐや姫の物語』でも反復される。
一つだけ『ハイジ』に関して特筆すべきことを記しておく。ハイジは両親を亡くして母の妹のデーテに預けられる。このデーテがハイジをハイジの祖父アルムおんじに引き渡すのが第1話である。このデーテのキャラクターが実にいい。デーテはフランクフルトに奉公口が見つかってハイジが自分の自律にとって邪魔になったからハイジをおんじに預けるのだが、ハイジを嫌っているわけではなく、あとで再登場してゼーゼマン家(クララの家)に連れていく。けれどもこれはゼーゼマンという資産家に気に入られたくてという側面も確実にある。ハイジの視点で見るとデーテはかなり勝手な人間なのだが、デーテにはデーテの人生もある。この人物造形のリアリティが高畑作品の特徴である。見る際はデーテの事情に対して想像力を働かせてみていただきたい。
赤毛のアン(1979年、テレビシリーズ)
モンゴメリというカナダの作家の小説を原作とするアニメ。『ハイジ』と同様一年間に渡って放送された(高畑監督作品では『ハイジ』との間に『母をたずねて三千里』もある)。こちらも原作は女性作家による文学作品で、しかも『ハイジ』以上に世界的に有名な作品なので、かなりジェンダー論的な観点からの批評や研究も多い。ただし、アニメの影響か、本国カナダや欧米より日本での人気の方が高いという説もある。
個人的にはこれは大好きなアニメである。宮崎駿は途中まで参加して降板してしまったのは残念だが、近藤喜文氏というアニメーター(のちにジブリで『耳をすませば』を監督)がキャラクターデザイン・作画監督を務めており、その人物描写が特に素晴しいのである。アンはユーモラスで可愛らしく、それは表情や仕草の作画の良さに負うところが大きい。
アンという11歳の少女が孤児院からマシュウとマリラという初老の兄妹に引き取られるところから話が始まる。そのアンが成長し進学などを経験していく約5年間を描く。アンという快活な少女が大人になっていく様に感動するとともに、それを育てるマリラの心情も想像しながら見るとおもしろい。
原作は1908年に発表され、以後シリーズ化した。アニメは原作の第一作にもとづいている。『ハイジ』もそうだが『アン』も徹底した取材を元に作られており、当時のカナダの女性の生き方が学べると思う。当時の女性が身に付けるべき料理とか裁縫とかが描かれる。女性が大学で学ぶことへの偏見とかも出てくる。しかしそれを描く高畑監督の目はあくまでフラットである。これも同時期の、ヤマト以上に超未来の作品『機動戦士ガンダム』とは大違いである。
で、拙者は原作を読んでいないのだけれど、読んだほうが良いっぽい。何故なら、アニメでは最後アンにいろいろ不幸があってやや悲しい感じで終るのだが、原作では続編で救いがあるらしい。
↓こういうフェミニズムの観点からの原作の研究書がある。まだ読んでないけど。著者は(批判も多いが)有名なフェミニストである。
おもひでぽろぽろ(1991年、劇場作品)
ジブリ制作の劇場作品で、金曜ロードショーで何度も放送されている。のわりにはかなりシビアな大人の女性のお話である。いまではあまり言われない「婚期を逃す」ことに関する話なので。主人公と同じくらいの年齢の現代の女性がこれをどう見るのかとか、もっと議論が盛り上ってもいいように思う。とにかく、かなりアニメ史上の異色作であろう。高畑先生ぐらいしかこういうのは作れないでしょう。
原作マンガは未読。原作とアニメ映画ではかなり違うらしい。
かぐや姫の物語(2013年、劇場作品)
宮崎駿監督の『風立ちぬ』と同年に公開され、いろいろと比較して論じられた作品である。ひときわ対照的なのはやはり女性キャラクターの描き方だと思う。『風立ちぬ』ではあくまで男性主人公の視点から生々しさと理想像を兼ね備えたみたいなヒロインが描かれたが、『かぐや姫』は女性主人公の視点から身分社会や結婚の煩わしさが描かれている。
かぐや姫が走りながら十二単を脱ぎ捨てていく超名シーンがあるが*5、そのへんは先述の『ハイジ』第1話の反復だと思う。そう考えると本作は『ハイジ』とけっこう似ている気がしてくる。かぐや姫ってハイジとクララを合体させたキャラクターなんじゃなかろうか。『ハイジ』が好きな方には、ハイジの続編かアナザー・ストーリー的な視点から『かぐや姫』を見ることをオススメしたい。
本作の企画書が『アニメーション、折りにふれて』に収録されている。高畑先生の思考の深さが窺える。
池田理代子原作(&出﨑統監督)作品
アニメ監督ではないのだが、マンガ家池田理代子先生は日本のジェンダー・フェミニズム文化史上で超重要である。池田先生自身はそれほどフェミニズムとか意識したわけではないらしいが、影響はかなり大きいと思われる。『ベルサイユのばら』と『おにいさまへ…』の二作品がアニメ化されていて、どちらもおもしろいのでオススメ。
ベルサイユのばら(1979~80年、テレビシリーズ)
少女マンガの金字塔的作品である。マリー=アントワネットと架空の貴族軍人オスカルを主人公にフランス革命前後の歴史を描いている。男装の麗人オスカルのキャラクター像は大変なブームを起こしたらしい。オスカルは家庭の事情で男のように扱われ育てられたが、女としての恋も経験し、葛藤が描かれる。
しかしブームの中心は原作マンガとその宝塚歌劇団による舞台版である。そうしたブームの少し後でアニメが制作された。なので『ベルばら』に興味がある人でもアニメを見るのは優先順位が低いかもしれない。
だが! アニメもぜひ見ていただきたい。アニメ史上でも特異な作品である。前半は長浜忠夫という人が監督だったのだが、途中で降板し、出﨑統に交代する。この出﨑こそ高畑勲や宮﨑駿と並び称される大監督なのである。現代の若者にはあまり知名度がないのが悲しい。私は出﨑監督の大ファンで、『ベルばら』も出﨑監督に交代してから俄然おもしろくなる。それを味わっていただきたい。出﨑監督は『ベルばら』までに『あしたのジョー』『エースをねらえ!』『ガンバの冒険』といった作品をヒットさせている。どれも毛色が違う作品である。しかも出﨑監督は原作にかなりオリジナルの解釈を加えてアニメ化する。それが『ベルばら』ではどうなったか。原作と出﨑監督の解釈を比較して味わってほしい。
おにいさまへ…(1991~92年、テレビシリーズ)
この作品は池田先生が『ベルばら』の直後に描いたものなのだが、かなり経ってからアニメ化された。監督はやはり出﨑統。原作は全三巻だがアニメは39話もあり、大幅に話を膨らませている。
まだあまり普及していなかったBSで放送されており、しかも裏番組が当時社会現象の『ちびまる子ちゃん』だったらしく、知名度が低い…。しかし個人的には大好きな作品である。
本作もアニメ・セクシュアリティ史の重要作である。本作こそおそらく最初の「百合」アニメなのである。それまでも百合っぽい作品はあったかもしれないが、女性から女性への恋愛感情をストレートに描いたという点で画期的である。
女子校を舞台にかなり情念が渦巻いている。要するにドロドロした話である。原作はまだ華美な感じがあったが、出﨑解釈のアニメ版ではサイコスリラー感が増している。美しい女性キャラが嫉妬に狂うシーンは見物である。
また欧米ではそこそこアングラ的支持があるらしい。
よく見たら(?)すごい作品
カードキャプターさくら(1998〜99年、テレビシリーズ)
これは本当に衝撃的なアニメなので、アニメが好きだけどまだ見たことがない人もアニメというものを蔑視している人もぜひ見ていただきたい。本作には「恋愛は同年代の男女の間でするものだ」という考え方が一切ない。いちおう主人公カップルはシスヘテロなのだが、同性間であったり、年齢差があったり、肉親であったり、種族が違ったり、そういう多様な愛の形が当り前のようにポンポンと出てきて、誰も咎めたりはしない。いまの20〜30代で放映当時女児だった人の多くは価値観においてかなり影響を受けたのではなかろうか。個人的には知世ちゃんのさくらに対する想いが近年よく論じられるオタクの推しへの感情というのとダブって見えてグッとくる。前出の『ウテナ』とも似ているのだが、『ウテナ』がそうしたテーマを前面に出していたのに対し、『CCさくら』はいたって普通のこととして描いている。しかも教育テレビの夕方放送であったのだから素晴しい。
原作はCLAMPによるマンガである。CLAMPというのは女性4人組のグループで、もともと同人サークルだった。少年マンガや青年マンガの二次創作のBLを描いていたらしい。『CCさくら』のこうした性や愛の感覚は、同人や二次創作の文化と深く関係しているように思う。『鬼滅の刃』の感想記事*6でちょっと触れたのだけれど、『CCさくら』はいわゆる魔法少女とか変身美少女ものというよりはそうしたもののパロディっぽい作品だと思う。
原作マンガはほぼ未読です。けれどアニメよりも原作のほうがより奔放に多様な愛が描かれているようです。
劇場版もあるが観ていない。また、2018年にテレビアニメの続編が放映されたのだけれど、まだ見ていない。ほえぇ
ふたりはプリキュア(2004年、テレビシリーズ)
『セーラームーン』とともに女児向けの変身女性ヒーローものの代表的作品。女性ヒーロー像を論じた文章とかよくあるがそういうのをやろうと思ったらプリキュアは必見である。
このプロデューサーのインタビューを読んでみていただきたい。
いかにジェンダーとかそういうことを考えて作ったかがわかる。女児向けアニメの常識に挑戦し、肉弾戦によるアクションを取り入れたのである。またセーラームーン・シリーズにはあった「王子様的な男が助けてくれる」という展開も意図して避けたらしい。
プリキュアはその後も時代の流れを敏感に察知して取り入れている。
僧侶と交わる色欲の夜に…(2017年、テレビシリーズとWeb配信シリーズ)
笑っちゃうようなタイトルだが、これはアニメ文化史やジェンダー・セクシュアリティ文化史上で画期的な作品である。同名のマンガが原作で、テレビ放送とWeb配信が並行して行われた。何が画期的なのかというと、非常に珍しい女性向けのエロアニメなのである。
原作マンガはティーンズラブというジャンルに属する作品である。ティーンズラブは略してTLとも呼ばれる。このTLを説明するのが難しい。私も詳しくないので、以下の説明は何か間違っているかもしれない。要するに女性視点で描かれた女性向けのエロマンガなのだが、男性向けとは異なる伝統を持っている。また成人指定が入るものは少ないようだ。男性向けエロマンガは劇画やロリコンブームやアダルトゲームなどの背景を持っているが、TLは少女マンガやレディコミの延長にある。雑誌「少女コミック」の新條まゆ先生の作品のように、少女向けでも性に関して踏み込んだ作品というのは多い。レディコミとなるともっとである。そのような「恋愛の延長としてのセックス」をもっと明示的に取り込んだジャンルがTLといえる。男性向けのエロはもっと行為やフェティシズムを露骨に描いたものが多いが、TLはそういうわけなので背景のストーリーや精神的繋がりを重視する。ただしちゃんと行為は描く。また近年は『COMIC快楽天』など大手男性向け成人マンガ雑誌でも「恋愛の延長としてのセックス」を描いた作品が王道となっていたりする。
さて『僧侶と交わる色欲の夜に…』に戻ろう。これはタイトルの通り女性と僧侶との恋愛とセックスを、女性視点で描いたお話である。アニメ版は5分枠でテレビ放送されたのだが、性描写が過激なシーンにはモザイクの要領で木魚の絵が被さったり「TERA劇場」というミニコーナーが映されて全面的にカットされたりする。そしてWebで有料でR-18の完全版が見られるようになっているのだ。このカットバージョンがいまもWebで無料で見られるので私はこれを見たが、R-18完全版はまだ見ていない! こうしたメディア展開も興味深い作品である。原作もアニメもComicFestaというプラットフォームで配信されていて、原作は全年齢向けである。ComicFestaはこれ以降も同じような形式でアニメを継続して製作しており、それらは「僧侶枠」などと呼ばれている。
ただしTLアニメというジャンルが根付いたといえるかどうかは微妙である。後発作品はあまりないく、僧侶枠も最近は男性向け作品を原作としていたりBLだったりする*7。これが僧侶枠の進化なのか退化なのかはよくわからない。今後も注視していきたい。
サイニイで「ティーンズラブ」で検索しても全然ヒットしないのであまりTL研究は進んでいないようである。研究者にとってはブルー・オーシャンでは???
考えるヒントになりそうな作品
雪の女王(1957年、劇場作品、ソ連)
ソ連の作品だが、いろいろと理由があって取り上げる。当時のソ連はディズニーにも引けを取らない傑作アニメーション映画を多く作っていたが、その最高傑作が『雪の女王』である。原作はアンデルセンの童話で、『アナと雪の女王』もいちおう同じ原作をモチーフとしている。ストーリーはこんな感じ。ゲルダとカイという女の子と男の子がいて、あるとき雪の女王がカイを連れ去ってしまう。ゲルダはカイを救うために旅をする。様々な苦難を乗り越えてゲルダは雪の女王の宮殿に辿り着く。カイは胸にガラスのトゲが刺さっていて心を失っていたのだが、ゲルダの涙がそれを溶かす。めでたしめでたし。なおアンデルセンの原作では宗教色が強いのだがソ連版ではそれはない。
『ホルスの大冒険』の項でも述べたが、東映動画の社内で本作が上映され、ホルスのストーリーやヒルダのキャラクターに影響を与えた。しかし高畑先生以上に強い影響を受けたのが宮崎駿であった。以下のインタビューで駿がその魅力を熱弁している。
女の子が男の子を救うために行動し、冒険し、最後は愛の力で心を救う。こうしたストーリーは『千と千尋の神隠し』の後半とよく似ている。駿は大監督であり彼の作品はいろいろな角度から論じられるが、その女性キャラクター像は称賛されたり非難されたりする。しかし彼の根底には『雪の女王』のショックがあるということは押さえておくべきかと思う。
アナと雪の女王(2013年、劇場作品、アメリカ)
ディズニーの大ヒット作品。同じくアンデルセン『雪の女王』にインスパイアされている。アンデルセンやソ連版と大きく違うのは男女でなく姉妹を主人公にしている点。女性同士の関係がフィーチャーされている。
王子様も出てくるが、ディズニープリンセスものの王道のストーリーを逆手に取るような展開になる。ディズニーに詳しくない私だが、なかなか画期的な作品なんでないか。
宇宙戦艦ヤマト(1974年、テレビシリーズ他)
『ヤマト』の最初のテレビシリーズはハイジと同時期にやっていて、しかも裏番組だった。テレビ放送時はハイジはものすごい高視聴率で、ヤマトは振るわなかった。しかしその後ヤマトは劇場版や続編を次々と制作し社会現象となっていく。広い年齢層のファンを獲得しアニメ文化の幅を拡げたことがヤマトの功績であろう。
しかし当時を知らない世代である私が見ると、明らかにヤマトよりハイジのほうが優れた作品と感じられる。作画のレベルが格段に高いとか技術的な格差もあるのだが、本記事の趣旨に沿って見てみると、やはりハイジにあったジェンダー感覚がまったくないのが気になるのである。ハイジと同時にやっていたとは思えない古さである。ヤマトには森雪というヒロインが出てくるのであるが、いわゆる紅一点的な出方である。なぜかナースまでやったりとか。現代の視点で見ると森雪の扱いはけっこう可哀想にすら見えるときがある。ちなみにヤマトの次に社会現象を起こしたSF作品である『機動戦士ガンダム』では女性キャラが戦闘に参加するようになり、さらにのちの『新世紀エヴァンゲリオン』では女性が副司令官的な役割をやるなど、女性の社会進出を背景にして女性キャラの扱いが変っていっているという指摘もあったりなかったり。
ただしヤマトという作品は、1970年代にあって戦艦大和を持ち出したりなど、当時としても古臭い作品であったと思われる。むしろ当時最先端だった宇宙SFものに古臭さをブレンドしたことが逆に新鮮だったのかもしれない。ハイジが現代に見ても新鮮な作品であったのとは対照的に、ヤマトは当時としても古い作品だったのだろう。しかもハイジは19世紀が舞台でヤマトは2199年である。というわけで、私のヤマトへの評価は低いのだが、まあアニメ史上の重要作品であることは変りない。ハイジと比較して見るとおもしろいかも。
うる星やつら(1981〜1986年、テレビシリーズ)
良くも悪くも、現代にまで続くラブコメの類型を確立した記念碑的作品。こういうラブコメの感じというのはフェミニズム的に褒められたものではないのかもしれないが、事実誤認に基づいて批判されていることも多いようで、まあとりあえず見るべきである。開始当初の監督(チーフディレクター)は押井守氏であり、高橋留美子先生というマンガ界を代表する天才とアニメ界の奇才の合作であるから、普通におもしろい。80年代のSFと学園の空気感を味わえる。またラム役平野文さんのめちゃんこかわいい声であったりあたる役古川登志夫さんの軽快な演技であったり、声優の功績も大きい。私は一部の有名エピソードを摘んで見ただけです。原作マンガはある程度読んだところ。
ラムちゃんは普段から露出度の高い格好をしていて(といっても基本的に家のなかでだけで学校では制服を着ているし休日に街に出るときも服を着ているが)、こうしたキャラクターがお茶の間に出現した意義は大きいだろう*8。空から美少女が降ってきて、しかもエロい格好をしていて、しかも主人公の男に惚れている、というのは「男にとって都合のいい」系ラブコメディでありその元祖と言えるかもしれない*9。こういうのは批判ポイントになるかと思う。ただ、ラムちゃんはかなり嫉妬深くしかも電気ショックを使うので、あたるはけっこう肉体的に疲弊しているが。
また、以下のデータを見てみると、本作は女性ファンのほうが多い。女性のほうがこういう投票に積極的な傾向があるからこうなるのかなと思ったが『めぞん一刻』は男性ファンのほうが多いようで、なんかリアルである。しかし音無響子さんはラムちゃんに比べるとまったく「都合のいい」ヒロインではないと思う。このへんの考察も楽しいね。まあそれはそれとして。
露出度の高い女性の広告やキャラクターは近年「性的消費」「性的モノ化」というふうに言われて批判されがちだが、昔はミニスカートやなんかが「女はおしとやかにしろ」みたいな価値観への反発だったりして、このへんはいろいろと微妙であるかと思う(フェミニズムは歴史的に第一波とか第二波とかいろいろあり、その眼目が違う)。ラムちゃんはどっちだろうか。原作者が女性でアニメのメインスタッフの多くは男性(キャラクターデザイナーは女性)であるという点も考慮すべきであろう。そして女性ファンが多かったということは、あたるの立場を羨む視聴者よりもラムちゃんの恋に共感して応援する視聴者が多かっただろうと推測される(しかしリアルタイムの視聴者がどういう割合だったかはわからない)。神回とされる回もそういう話が多い。また「ラム」という名前はグラビアアイドルの元祖ともいわれるアグネス・ラムから取られているというのも興味深い。さらに最初のオープニングテーマの「ラムのラブソング」も印象的で、平野さんの声とこの歌(歌っているのは平野さんではないが)がラムちゃんのキャラクターの確立に寄与している。これらの点をいろいろ踏まえてラムちゃんというキャラクターの受容を考えるとおもしろい。批判するにせよ称賛するにせよ、ラムちゃんは80年代の女性キャラクターの象徴というか金字塔であることは確かで、アニメ文化の歴史をジェンダー/フェミニズムの観点から調べるなら確実に抑えておくべきだろう。
性的モノ化を論じた論文が↓の本にあるよ。あと江口聡先生の論文も読みましょう。
本作にはもう一点、特記事項がある。原作もアニメも中盤から登場する竜之介というキャラクターがいる。竜之介は一見すると男だが実は女、というキャラである。ツッパリのような格好で言葉遣いもそんな感じなのだが、実は胸にサラシを巻いて乳房を潰していたりする。「サラシを巻いて胸を隠す」キャラというのは近年の二次元文化でよく見られるが元祖はこの竜之介ではないかと思われる。ただし竜之介のキャラはもう一段深い。竜之介は「女であるが男になりたくて男の格好と口調をしている」キャラ、ではない。竜之介の性自認はあくまで女であるが父親がクレイジーで竜之介を男として育てたので男のように振る舞うことしかできないのである。なので竜之介のお決まりのセリフは「俺は女だ!」というものである。心も身体も女なのに「女の子」というものへの憧れが強い。容姿端麗で男前な性格なので女子にモテるが、あくまで女の子らしくなりたいのでそれを疎ましく思っている。だが、自らの男っぽさを嫌っている割に、男として育てられたので自らの身体の女っぽい部分に居心地悪さを感じている。この妙なねじれが竜之介のおもしろさである。こうしたジェンダーのねじれは留美子先生の次作『らんま1/2』に受け継がれていく。竜之介は原作者もお気に入りでファンからの人気も高い。アニメでも竜之介の登場回は評価が高いようである。むしろけっこうあたるとラムが食われている。またCVの田中真弓さんはこれで一気に知名度が上がったらしい。
なお、劇場版第2作『ビューティフルドリーマー』はアニメ史に残る名作で、アニメ好きならば必ず見るべきである。アニメ映画として傑作であるだけでなく、やはり後のサブカルチャーに多大なる影響を及ぼすある構造を持った作品となっている。ただし留美子先生からの評価は低くて、押井ファンとるーみっくファンはけっこうギスギスしている*10。先ほどのNHKのデータでは『うる星やつら』ファンは女性のほうが多いが『ビューティフル・ドリーマー』は男性ファンのほうが多い。これは押井ファンなのだと思う。こういうファンの男女比も調べるとおもしろいのである。
令和の新アニメはまだ見ていない! ジェンダー観の変化を見るとおもしろいかも!
クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡(1997年、劇場作品)
『クレヨンしんちゃん』の劇場版。本作では野原一家と共闘するゲストキャラとしてオカマの三兄弟が登場する。見た目は戯画化されたいわゆる「オカマ」というキャラである。そしてなんと、これ以降クレしんにこのようなオカマちゃんキャラというのは登場しなくなる*11。そして「オカマ」という言葉も使われなくなり、本作をテレビ放送する際には「オカマ」という台詞はカットされるらしい。「オカマ」という呼称は侮蔑的であり*12、近年のテレビでは「オネエ」と言ったりする。オネエなら良いのかという話もあるが、まあクレヨンしんちゃんも時代とともに変っていて、それが現れたところの一つがこれである。
個人的には本作は『オトナ帝国』と『アッパレ戦国大合戦』に次ぐクレしん映画の傑作だと思っていて、ギャグのキレに関してはいちばん好きである。
エスパー魔美(1987〜89年、テレビシリーズ)
藤子・F・不二雄先生のマンガが原作。しかし原作はちょっとしか読んだことがなく、アニメもちょっとしか見ていない。それでもこの作品を取り上げたのには理由がある。
近年『ドラえもん』におけるしずかちゃんのお風呂シーンが非難されることが多い。のび太がどこでもドアとかなんらかの理由でワープするとそこはしずかちゃんの家の浴室で、しずかちゃんが入浴中だった、というおなじみのやつである。これがしずかちゃんの立場からすると普通にトラウマだ、というわけである。言われてみれば確かにそうである。しかし虚構作品に対してそうした批判がどれだけ成立するかというのはけっこう哲学的に難しい問題であるとは思う。
で、実は『エスパー魔美』には『ドラえもん』のこの演出をメタ的にギャグにする場面がある。アニメでは第14話。高畑さんという魔美のボーイフレンドが入浴している浴室に魔美がずかずか入っていって、高畑さんが恥かしがる。そこで高畑さんが「これじゃあまるで僕は、しずかちゃんみたいじゃないか」と言うのである。この高畑さんというのはのび太とは正反対で頭が良く性格も良くて頼りになる好人物である。そして魔美は画家である父の絵のヌードモデルをやっていて裸に対する抵抗が薄かったりする。皮肉なことに『ドラえもん』はいまだに国民的アニメの地位を保っているが、『エスパー魔美』はこのややアウツな設定のために再放送がしにくいらしい。また『エスパー魔美』は『ドラえもん』のような突飛な能力は登場せず、地味な超能力が話のカギとなる。そして『魔美』は『ドラえもん』で「色気がない」と評されたF先生がちょっとエッチな作風を目指した作品であるらしい。などといろいろな点で『ドラえもん』とは対照的な作品で、『ドラえもん』を論じる際には『エスパー魔美』も抑えておくといいかもしれない。
なので原作マンガを読むべきだが、アニメ版の監督(チーフディレクター)が原恵一氏である点は注目に値する。原氏は『クレヨンしんちゃん』の2代目監督で、前出の劇場版『暗黒タマタマ』および大傑作である『オトナ帝国の逆襲』『アッパレ戦国大合戦』を監督している。『クレヨンしんちゃん』のようなものを撮っておきながら真面目な人物で、下品なものは嫌いらしい。なんだかF先生と原恵一監督は似ている気がする。
けいおんシリーズ(2009年、2010年、テレビシリーズ。2011年、劇場作品)
京都アニメーションの代表作の一つであろう。メインスタッフである監督の山田尚子さん、シリーズ構成の吉田玲子さん、キャラクターデザイン・総作画監督の堀口悠紀子さんは全員女性で*13、登場人物もほぼ女ばかりという、ある意味で偏った作品である。そういうのは当時はまだ珍しかった気がする*14。
これまで取り上げてきた多くの作品は原作が女性で監督が男性なのだが、本作は逆である。そのあたりもおもしろいところ。
『ラブライブ!』シリーズ(2013年〜、テレビシリーズ、劇場作品など)
これもメディアミックス。
メインスタッフには女の人が多いが、監督と脚本はずっと男がやってるっぽい。
見たら驚くのだが、先出の『けいおん』に輪をかけて男が出てこない。それが徹底している。『けいおん』はまだちょい役で男が出ていたが、『ラブライブ』はそんなのも許さない。女子高生のアイドルの話なのに作中のライブのシーンで客席に男がまったくいない。また主人公の父親が顔の下半分しか出てこないとか、そういう不自然な演出技法までをも使っている。そこまでして男を画面から排除しているのである。
女だけの世界を見たいというオタクの願望の現れだろうか。一考の余地あり。
羅小黒戦記(2019年、劇場作品、中国。web版のシリーズも継続中)、ウルフウォーカー(2020年、劇場作品、アイルランド)
近年、ディズニー/ピクサーのような伝統あるスタジオではないところで、日本のアニメファンでもすんなりと見られてしかも上質な手描き2Dアニメが海外でも作られるようになってきている。アート色の強い作品でもなく。そこから二作品をチョイスした。本記事の冒頭でアニメが「遅れてる」と見なされることに憤慨していた私だが、この二作を見ると日本アニメの後進性を認めざるをえない。
羅小黒戦記については長々と感想を書いたことがある*15ので割愛する。今後「羅小黒戦記にあって日本のアニメにないものを考える」という記事も書こうと思っていた。そこで書こうとした内容の一つに「良識ある大人が作っている感じ」というのがある。これは羅小黒戦記の大きな長所だと思う。なんだか日本のアニメで頻発するお色気シーンとか頬を赤らめるやつとかがめちゃくちゃ下品に感じられてくる。
まだ感想とかを書いていなかったけれど『ウルフウォーカー』も素晴しい作品だった。制作スタジオのカートゥーン・サルーンはポスト・ジブリとか言われているようで*16、監督の人も高畑・宮崎からの影響を認めているらしい。「ウルフウォーカーにあって日本のアニメにないものを考える」という記事も書こうと思っていたのだけれど、これは端的に言って「教養」であると思う。「ウルフウォーカー」という作品は教養で溢れている。日本の粗製濫造的アニメはそのへんがスカスカであることが多い。教養という点で高畑・宮崎のジブリを継承していると思う。本作は女の子ふたりが主人公で、イングランドによるアイルランド侵攻の抑圧を人間によるオオカミ狩りと重ねたストーリーだが、さらに女性への抑圧みたいなテーマともうまく絡めている。こう書くと難しい作品みたいだが、アニメーションとして非常に楽しい作品でもある。こういう知的なテーマを扱いつつエンターテインメントとしても上質なアニメが出てくるというのは良い時代になったものである。
いずれも日本のアニメから強い影響を受けているのは間違いないのだが、むしろ日本アニメへの不満を形にしているようにも見受けられる。そのへんはまあまた別の記事で。
*1:正確には「監督」ではなく「シリーズディレクター」表記。
*2:小説やマンガ原作やアニメの手伝いをやっていたが、監督作品はなかった。
*3:雑ですいません…
*4:なんか偉そうですいません。
*5:私の文章では「超名シーン」とかそんな表現しかできませんわ。
*6:
「鬼滅の刃」(原作)を読んだのでその感想 - 曇りなき眼で見定めブログ
*7:BLがTLの一部といえるのかどうかはよくわからない。少なくとも女性視点のお話にはならないかと。
*8:峰不二子とかキューティハニーとかドロンジョとかお色気キャラみたいなのはそれ以前からいたが、ラムちゃんは更に露出度が上がっていると思う。他にもいるかもしれないが。
*9:「ラブコメディ」という言葉はそもそも留美子先生とあだち充先生の活躍によってできた言葉だと思われる。
*10:こちらを参照→もしかして高橋留美子ファンは押井守ファンを嫌っているのでは? そして ufotable ファンと「鬼滅の刃」原作ファンも… - 曇りなき眼で見定めブログ
*11:たぶんまったく出てこなくなったわけではないと思われます。情報求む。『栄光の焼肉ロード』にはもっとリアルな芸が出ていたが。
*12:人によっては「オカマ」という呼称を誇りに持っている人もいるだろうが、他人がそう呼ぶのはよくなかったりとか、いろいろある。
*13:この3人はチームを組むことが多いので、この3人がメインの作品という感じ。
*14:少なかったというだけでそれなりにあったとは思う。
*15:
劇場版「羅小黒戦記」の感想(というか讃辞)(大ネタバレあり) - 曇りなき眼で見定めブログ
*16:こういうのって褒めてるのかどうか微妙な表現ですよね〜。