曇りなき眼で見定めブログ

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『分析フェミニズム基本論文集』を読む・その4 ティモ・ユッテン「性的モノ化」

 ↓これの続き!

cut-elimination.hatenablog.com

↓この本の論文を一つずつ読んでいくシリーズ!

第4回はティモ・ユッテン「性的モノ化」木下頌子訳。ユッテン先生は英国の人でこの論文は2016年となかなか新しい。しかし英国と日本、2016年と2023年現在ではけっこう状況が違うのかと思うほど実態とズレたような記述も見受けられる。

 前回は番外編として江口聡先生の性的モノ化についての論文を読んで勉強した。江口先生は性的モノ化などフェミニズム・セックス哲学論文があまり実証研究やアンチ・フェミニズム的な研究を参照していない事を危惧していたが、何やらユッテン先生の論文もそうした感じは感じる。

 英国の先生が書いた論文ではあるが、日本のトゥイッターなんかで見られる議論とよく似ている。そういう世界的潮流を学べるという点ではなかなか読む価値のある論文だと思った。

 ユッテン先生は、江口先生が(批判的に)取り上げていたヌスバウム先生の道具扱いとしてのモノ化説に反論し、モノ化は社会的意味の押し付けであるとして非難する。人は自分のパブリック・イメージなんかを自分で選択して提示できるのでなければならない。しかし意味が押し付けられる事でこれが出来なくなる。ここに性的モノ化の問題がある。ユッテン先生は人種的ステレオタイプが押し付けられるという事態に関する研究を援用し、同様の事がヘテロ男性から女性に対して行われていると主張する。

 江口先生はヌスバウム先生やその他のモノ化理論を取り上げて、それほど問題はないのではないかと論じていた。スポーツ選手をエロ目線で撮った写真などはそのスポーツ選手のスポーツ選手という属性を無視していないので、完全なモノ化ではないのではないかと。しかしこのユッテン先生の論に従えば、これもやはりよくない気がしてくる。このエロ目線を選手に押し付ける事にはなっているので。もう少し検討してみたいところ。

 江口先生が論じている通り、アネクドータルな例は出てくるがそれが性の実態を反映しているように思えない。リンダ・ルモンチェックという人が挙げている酔って性行為を迫る夫の事例が取り上げられている。確かにこの例では夫は妻に「迫ればヤらせてくれる」という性的なステレオタイプを押し付けていると思うが、これが世の中でどれくらい一般的な夫婦の在り方なのか分らない。

 セクハラおやじのような人は確かに極度に悪質な形で女性をモノのように扱っているとは思う。しかし実態としてそれがどのくらいるのか判らず、それと性別間の不平等がどう結びついているのかも分らないのである。そうした立証はこの論文ではされていないように思った。女性をモノ化する男と性別間で不平等な社会は確かに実在してはいるが。

 特にポルノや性的な広告、あるいは表現一般が女性を性的にモノ化しそれが女性に不利な社会的意味を押し付けているという。これも実態に合っているかどうか。ややイメージが先行しているように思う。そこまで悪質なモノ化ではないような気がする。主張が纏った段落を引用する。

 女性たちは多くのメディアで性的対象として描かれており、そこで描かれる具体的な意味は個々のメディアによって異なるものの、それらには共通して、女性の価値は男性にとっての性的魅力と性的誘いへの応じやすさによって適切に決定されるという考えが組み込まれている。ゆえに、性差別的な広告や男性誌、ミュージック・ビデオやポルノはみな女性を性的対象として提示している。問題は、そのメディアが性的に露骨な題材を含んでいることではない。そうではなく、そのメディアが、女性は性的魅力と性的誘いへの応じやすさによって適切に価値づけられ、扱われるという見方を促進していることが問題なのである。そしてまさにこのことが性的モノ化を行うメディアの十分条件である。モノ化が意図的であることは必要ではないのだ。(145-146ページ)

こうした見方がどのような根拠に基いているのかというと疑わしい。そしてこういう議論はトゥイッターなんかでよく見る。性的魅力を使った広告や表現物ならば性的対象として描かれる事は当り前だし、モノ化(人を性的魅力に還元している)ではあるかもしれないが問題無いと思う。で、こうした表現が「女性の価値は男性にとっての性的魅力と性的誘いへの応じやすさによって適切に決定されるという考え」を組み込んで世に広めているかどうかなのだが、これは私も反省する点はあって、質の低い作品はそうだと思う。しかし「シチュエーションが大事」とか「関係性が大事」とかよく言われるが、質の高い作品は、例えばセックスの魅力は女性の身体の魅力が全てではない事を教えてくれる。漫画『チェンソーマン』を見よ。しかし同作はアニメでは質の低い表現に落ち着いてしまっていて、こういうのを指摘していくのが当ブログの役割であり、善処したい。そして性的誘いへの応じやすさであるが、AVやエロ漫画ぐらいしか知らない私でもこれは違うと思える。AVにおける(都合の良い)女性像では、誘いへの応じやすさという受け身な感じより積極性が大事なのではないか(これは私の好みかもしれないが汗)。あるいは拒絶されると興奮する人もいるかもしれない*1。そしてこうした見方が女性のステレオタイプになる事をユッテン先生は懸念していると思うが、むしろポルノやエロい萌えアニメなんかを好む人は、世の女性がそれほど都合の良い存在ではない事をよく知っているからこうした表現に傾倒するのではないかと思う。

 それとこれも江口先生が指摘していたが、女性が男性をモノ化する例が出てこないのは不自然である。注で女性向けポルノやゲイ向けポルノは扱わないとしているがその理由が分らない。私の感覚としては、誰しも密かに適切に性的モノ化された表現を楽しめば良いと思う。或いは英国では事情が違うのかもしれないが、女性もかなりポルノの世話になっていると思う。女性向けAVの文化は日本でもまだまだ発展途上と思うが、それでもかなり充実してきている。そしていわゆる二次元文化では女性向けのも相当に活況を呈していると思う。BLのエロ作品が商業でも同人・二次創作でも大量にあるというのはまあよく知られていると思うが、TL(ティーンズ・ラブ)という女性向けエロジャンルが実は物凄い市場になっているらしい。しかしこれも噂程度にしか分らない。サイニイで「TL/ティーンズラブ」で検索しても殆どヒットせず、どうもジェンダーセクシュアリティ研究において無視されている感じがする。そして男性アイドルなんかは勿論盛んである。女性も男性を積極的にモノ化(意味の押し付け)していると思う。これは悪質なモノ化なのかどうか。ただし性的な魅力だけが重要ではないという点は男性から女性へのモノ化(?)よりも顕著な感じはする。だが女性の方が男性に対する(必ずしもセックスと関係しないが)理想像の押し付けは強いイメージもある*2。女性向けのポルノとか性的魅力を使った表現が増えれば性別間の不平等感も多少なくなるんではないかと私は密かに期待している。

 ユッテン先生は最後に、女性が積極的に自分の性的魅力を使う事をやや留保付きで問題視している。これも女性への社会的意味の押し付け、ひいては女性の社会的地位の低さを助長しかねないからである。確かにそうした見方もあるが別の見方もできる。Instagramの自撮りやTikTokの妙にエロい踊りなんかを見ていると、女性は自身の性的魅力で男の性欲を弄ぶ事に何か楽しさのようなものを見出しているようで、むしろこれが出来てしまう事は女性の強みのようにも思える。男もそれなりにこうした営業をやっていると思うが、負けている。ユッテン先生こそ女性は自分からはしたない真似をする訳ないというステレオタイプを持っているんでは、という感じもある。

 などなど。

*1:暴力的なポルノはそうしたセックスを合法化(譬喩)するというマッキノンの言葉を引いているが、むしろ合法でないから興奮するのではないか。

*2:しかし漫画ならばキャラクターは完全に架空の存在だから問題ないのだろうか?