※本記事を書く前後でいろいろ教えていただいたことで、私の確定記述への理解もかなりあやふやだったことがわかりました。しかし「訂正する力」によってこの記事はどんどん良いものとなっています。
ゲンロンのイベントの動画の切り抜きツイートが流れてきて、その中で東浩紀先生が「確定記述」をよくわかっていないっぽい発言をしているのを見た。それで引用で指摘した。
東先生はいま『訂正可能性の哲学』という本を出したところで、精力的にイベントなんかをやっている。それでTwitterでも「訂正可能性が大事だ」とことあるごとに書いていたので私が「確定記述の間違いも訂正するのかな」とかいらんことをツイートしたら、宣伝のためにエゴサ中の東先生に見つかったわけである。
接触篇
↓これを参照。
確定記述というのはラッセルの言語哲学で出てきた概念で、"the 〇〇"という形の単数の名詞句のことである。"the"が付いているので、固有名のように一つの対象を表すことができる(教えてもらって調べたところ、これは微妙みたいだが*1、確定記述と固有名を比べるならこの性質は前提すべきもののように思える)。日本語では冠詞がないので、単に一つの対象が当てはまるような名詞句を確定記述とすることが多い(飯田隆『言語哲学大全Ⅰ』では日本語の確定記述には語尾に「#」を付けて区別している(これについて後で追記))。ラッセルは固有名と確定記述を同一視したが、クリプキがそれに反論したわけである。
で、東先生は「男性」を夏目漱石についての確定記述と述べていた。もちろん間違いである。『存在論的、郵便的』について語っている動画だったので、同書も確認してみた。
そしたらアリストテレスを表す確定記述として「プラトンの弟子」を例に挙げていた。プラトンの弟子は複数いるのでこれも間違い。「プラトンの弟子でアレクサンドロスの教師」とか書かなければならない。
東先生や後に見るファンの見解では、東先生は哲学用語を「ハイブリッドに」使用していて、分析哲学の伝統とは違う意味で使っているのでいいらしい。しかし東先生は動画でも本でもラッセルやクリプキの議論を紹介する文脈で述べているのだが、ラッセルやクリプキと同じ意味で使わないと間違いである。それに東先生は確定記述と固有名の違いを論じているところだったので、「男性」みたいな固有名のように唯一の対象を表現できない表現を確定記述としてしまったらそもそも機能が違うから議論の意味がなくなってしまう*2。「男性」と「夏目漱石」は意味も機能も違って当り前なのである。
というようなことを細かく東先生に述べて私の考えを説明したかったのだが、ブチギレてブロックされそうだし、やめておいた。ちょっと指摘しただけで敵認定してくるんだからしょうがない。東先生はもはや知的なやり取りの成り立つ人ではないんじゃないかと思う(もともとできていたのかどうかは知らないが)。
それはさておき、私のアカウントやマシュマロに東ファンぽい人から攻撃的なメッセージが相次いで、それが興味深かった。どんな人が絡んできたかをまとめておく。
追記:飯田隆『言語哲学大全Ⅰ』では"the Japanese"という確定記述の例が出てくる。"Japanese"は一般に一人に定まらないが、"the"が付くことで対象が確定する。これに対応する日本語表現はないので、飯田先生は"日本人#"を確定記述の日本語版としている。しかし、考えてみるに、例えば「男性」という表現はニュースなんかで「近くに居合わせた札幌市在住の男性が死亡しました。男性は観光に訪れていたということです」みたいに文脈によって「男性」の表す対象が一人に確定するケースはある。これも確定記述と言えなくもない気がする。というわけで「「男性」は確定記述ではない」としたのは訂正します。東先生のように「夏目漱石はXXである」のXXに当てはまるかどうかを確定記述のテストにすることはやはりできないが。他の日本語の言語哲学入門書だとやはり#とか付けなくても単体で対象が唯一に決まるもの(「プラトンの弟子でアレクサンドロスの教師」のように)を日本語確定記述の例としているのが多いっぽい。↓これとか。
↓この本は対象が一つに確定するのが確定記述とはしていないが、出てくる例はそういうものだった(全体は見ていないので間違っているかも)。
それと、『言語哲学大全Ⅰ』の増補改訂版では、この唯一性を日本語の確定記述の定義とする考えが増補された注で「訂正」されていた。飯田先生は近年は言語哲学の立場から日本語の構造を分析する研究をしていて、このあたりの議論も発展しているらしい。「『言語哲学大全Ⅰ』を読めば唯一性が確定記述の定義と書いてあるぞ」みたいに言ってしまった私はここに訂正する。
2023年10月に出た↓この本では、「ザ・初代内閣総理大臣」のように書いて日本の初代内閣総理大臣という一人の人を表していることを明確化している。
発動篇
批評家ワナビ大学生
この人は自分のツイートをのちのち見返して恥かしくなる可能性もあるのでアカウントを晒さないでおく。私が「東先生って査読付き論文を書いたことあるのかな」とかツイートしたら、なんか癪にさわったらしく引用で絡んできた。元ツイートは消したようなので引用できないが、「調べればわかることをわざわざ書いて気持ち悪い」とか書いてた。私は東先生が「論文を書け」とか書いているので、論文というものを東先生がわかっているのかと思ってそうツイートした。東先生が査読付き論文を書いたことがあるのか本当に知らない。調べてもわからない。というのをリプライで問いただしたところ、博士論文を査読付き論文だと思っていたらしい。学位論文て査読付き論文というのだろうか? あまり言わない気がする。とりあえず「学術雑誌に査読付きで載った論文のことを意図していました」とか伝えたら謝罪された。
この人はnoteをやっていたので見てみたら、高校時代に『動物化するポストモダン』を読んで批評に目覚め(てしまっ)たらしい。そういう人が東先生を支持しているのだなあ。
口の悪い中年男性
この人はTwitterをブロックされてしまったので晒せない。なんか音楽の会社をやっている人らしい。
私が実名でTwitterをやっていないことが気に障ったらしい。私は実名でやるのは恥かしいが訊かれたら答えるスタンスなので実名を教えたが、ダメらしい。
それとこの人は確定記述とか言葉の細かい意味にとらわれていたら真の哲学はできない、みたいな考えのようだった。あとやたらと大学にこだわっていて、「大学の哲学科」への嫌悪感みたいなのも感じた。中島義道とか内田樹も好きらしい。中島義道とか内田樹とか東浩紀とかを読む人が、アカデミックな厳密な哲学を嫌っているとしたら恐ろしいことである。哲学の普及戦略をよく考えねばならない。
この人は人を「お子様」とか呼んだりとにかく口が悪かった。実名を出さないのには怒るのにそういうマナーはなっていないのが不思議で、この人の人となりに興味を持ち、いろいろ質問責めした。子どもがいるらしく「家庭でもそんなに口が悪いのですか」とか訊いたらブロックされた。絡んでいいのは絡まれる覚悟のある奴だけじゃ!
マシュマロでキレ気味だった人
ちょっとイラついてる。
マシュマロでブチギレてきた人
怖かった。
販促云々はまあ私の言葉が悪かった気もするが、この人はたぶん東ファンで、私のツイートにキレているというより私の東先生への態度にキレていて、私のツイートをどんどん悪くとるようになってしまったのだと思う。この人も査読付き論文云々にキレている。
マシュマロで嫌味を言ってきた人
こいつはムカついた。ザ・老害という感じ。マシュマロもこんなやつ通してんじゃあないよ。
もと哲学志望らしい。コンプレックスがどうのとか私が言ってもいないことを言ってマウントをとろうとするあたり、この人こそなんらかのコンプレックスから現役学生の私に絡んできている気がしてならない。ブーメランてやつ。
しかしこんないかにも悪しきネット民みたいな文章を書いていて自分で恥かしくないんかな〜と思った。匿名だと人はおかしくなる。
マシュマロで珍しく議論が通じた人
ちゃんと議論が通じた人もいた。若干マウント臭い表現もあるがまあまあまあ。
私の反論は十分だと思う。
追記:ラッセルの確定記述は「指示する」「指し示す」ものではないのではないかと指摘をいただいた。これは確かにその通りで、少なくともラッセルはそうは考えていないし(むしろ確定記述は指示ではないと分析したのがラッセルの偉さ)、一般に確定記述が指示表現と言えるかどうかも議論があるらしい。なので「指し示す」ではなく「表す」とかで理解しておいていただいて。
更なる重要な追記:この質問者さんはサール大先生の「記述の束」説の話をしているように思えてきた。で、おそらく東先生も「固有名=確定記述」説と「固有名=記述の束」説がごっちゃになっている。私もごっちゃになっていたところがあるので追記。
まず確定記述は記述の一部なので記述を確定記述と言ってはいけない。ここを東先生は誤解している。記述と確定記述を勘違いしたのだとして、記述を確定記述と言うことを認めるとすると、もはや話は確定記述のことではなくなるのだがさておき、この質問者さんと東先生は「aはaでない」のaに記述を入れて反例としているが、それはサールは回避できる。aは記述であって束ではないので固有名=記述の束という定義への反例にはならない(これはaを固有名=確定記述としていれば反例になる)。
あと束は集合とはちょっと違うのも注意。束とは連言でなく選言である(これは私もよくわかってないが)。なので東先生や質問者さんの主張を仮に(というか無理やりに)aという記述を含む記述の束Aを持ってきて「Aはaでない」ということだとしても、決定的な反論ではないと思う。その場合はAが固有名の代替として不十分だと言うだけなので。固有名をどんな記述の束Xと定めても固有名がX中のどの記述も満たさないような反事実的状況はあり得る、というのがクリプキの批判かと思う。ラッセルは固有名は確定記述の「集合」とは言っていないはずなので(同値類みたいには見られるかもだが)、こちらの東解釈のほうがまだ整合的かもしれないが(論理学者・哲学者の大西琢朗先生からそのような指摘があった)、東先生の反論を見るとそういうことは言っていないしやはり固有名=確定記述と思っていて確定記述を変に取っているっぽいのである。
東先生と質問者さんの主張を最大限好意的に解釈すると「固有名とは記述の集合だと言う従来の説があるがそれは違う。そして単なる記述をハイブリッドな私は確定記述と呼ぶ」というものになるかな〜とも思う(従来の説と言ってもラッセルの説ともサールの説とも違うが)。するとやはり記述の集合でなく個々の記述を代入してしまってはおかしいのである。
東信者
その他、マシュマロでわけわかんないことを書いてくる東信者がたくさんいた。
味方してくれた人も
江口某こと倫理学者の江口聡先生とytbこと論理学者の矢田部俊介先生はTwitterで味方してくれた。拾う神あり。ありがとうございます。お二方に対しては北条時頼に対する佐野源左衛門の心持ち。戦を起すことがあったら真っ先に駆けつけます(私にできることがあればね)。
ぶっちゃけ
東浩紀本人も東ファンも、どうしてこんなに「批判」に対してイライラする、あるいはキレてしまうのだろう。そこがわからない。知的な議論て批判し合うものだろう。私の態度が悪かったというのなら訂正して謝ります(こうやって皮肉っぽく「訂正」とか使うのがアカンのかも)。
今回絡んできた人たちの殆どはぶっちゃけ東ファン、ゲンロン界隈の中でもレベルの低い人たちだとは思う。そうでないちゃんとした東支持者の人は東先生の確定記述に関する議論をどう思っているのだろう。そこが気になる。目をつぶって見なかったことにするのだろうか。
例えばいまゲンロンの代表をやっている上田洋子先生は、私はロシア語の授業を受けたことがある(ソローキンの講読だった!)。上田先生はちゃんとしたというか普通にまともな先生だった。そんなまともな人は東先生の知的能力や知的誠実さを本当のところはどう評価しているのだろう、とか思った。