成田悠輔先生の「集団自決」発言がまた蒸し返されて再炎上している。アンチ成田としては嬉しい。↓アンチ成田記事は下から辿ってください。
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成田先生ももっとハッキリとした釈明コメントを出せばよいと思うのだが、プライドが許さないのか、飄々としたキャラで獲得した信者を失いたくないのか。とにかく批判に対して説明を尽くさないのは学者として良い態度ではない。またいろいろな発言や本の記述から、成田先生はSNSでの立ち振舞いや炎上のコントロールを学問的な真理探究よりも気にしているフシが見受けられ、そこのところに学者としての弱点があると思う。
話はかわって。マシュマロでこんなタレコミが入った。
助けて論理えも〜ん!ヒース『ルールに従う』の「命題」の意味がおかしいんだよ〜!批判記事を出してよ〜!
で、図書館で当該書籍を見てみた。
索引に「命題的態度」と「命題的に差別化された言語」という語があり、当該ページを見た感じではそれらの語の中の「命題」の用法はおかしくないと思う。で、続いてイントロダクションを読んでみたら「ポジティブな命題」という語が出てきた(9ページ)。この意味はここではよくわからなかったが、まあおかしくはないのではないか。「命題」の誤用としてよくあるのは、疑問文を命題と呼んでしまうとか*1、文ではない句を命題と呼んでしまうとかで、そういうのがあるのかと思っていたがそれは今のところはない。今後もっと中身を読んで検証します。
しかしこのジョセフ・ヒース『ルールに従う』はなかなかおもしろそうな本である。私は最近↓の本でゲーム理論を勉強しているのだが、数学的な理論の背景に意外と哲学的な議論があって驚いた。
『ルールに従う』はそういうゲーム理論など社会科学理論の基礎部分を哲学的に考察する本の模様。ヒース先生は哲学者だが、哲学史にもその他諸科学にも造詣が深くて驚く。
成田悠輔問題に戻る。成田先生は経済学が専門だが、経済学といってもかなり先端的で応用的な研究をしておられるのだと思う。つまり社会問題の広い範囲に的確なコメントをできるような学者ではない。そういうのが専門ではないので。私は「学者は専門分野にだけコメントしておけばいい」とは思わない。しかしいろいろな分野にコメントするのであれば、いろいろな分野に応用できるような基礎理論を持った学者であるべきだと思う。ヒース先生は著書で社会問題にも言及しているが、それは基礎的で総合的な研究が基盤にあるからだろう。↓みたいな絵空事のような薄い新書しか書けない成田先生は、いろいろな社会問題に物申せるほどの力量はないと思うし、専門分野では一流でもそうした力量のない学者というのはちょくちょくいるのだろう。
成田先生は『ルールに従う』と同じ叢書「制度を考える」シリーズのハーバート・ギンタス『ゲーム理論による社会科学の統合』を翻訳していて、けっこう熱い訳者解説を書いている。
成田先生も本当はこういう本が書けるような学者になりたかったのでは? 今からでも遅くないから、メディア出演とか雑文書きの時間をもっと総合的な理論の探究(もっとあからさまに言えば幅広い読書)にあてるべきだと思う。
というわけで、人文社会系の学者は基礎的で総合的な分厚い本を書こう! 実際、哲学やその他人文社会科学では、そういう分厚い本を書いた学者こそが尊敬されている(一部例外もいるが)。この点で人文社会系と自然科学系で学問のやり方が異なるように思う(自然科学系では一人の学者が大きな理論を作ることはもうあまりない)。で、私の見た感じ、日本にはそういった本を書く学者は少ない。ヒース先生みたいな博識タイプの学者があまりいない気がする。頑張ろう!
また、前に哲学史が必要か不要かみたいなことをいろいろ書いたが↓、総合的な理論を自力で展開するには過去の議論をかなり遡る必要があり、哲学史の知識が助けになると思う。
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*1:疑問文も命題と考える人も稀にいるかもしれないが。