一年半くらい前に植村玄輝先生が紹介して話題になっていた論文を今さら読んだぞ!
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/0020174X.2022.2124542
哲学史の研究は哲学の研究に不要と主張するHanno Sauer, "The End of History"という論文。といっても私は哲学の論文、しかも英語の論文を読むのは苦手なのであまりわかっていないかも。植村先生のブログに書いてある要約を参考にした。
哲学史、もっというと偉人の古典を研究することは哲学研究において重要とされてきたが、そうでもないと言う。この論文で繰り返し述べられるのは、古典研究を擁護する議論は「古典の研究が哲学研究において特に重要だということを論証できていない」という議論である。これはなるほどと思った。それと自然科学では哲学みたいなことはしない、という議論もよく出てくる。これは自然科学と人文科学の違いを強調したがる人には受け入れ難いだろうが、私は共感する。
植村先生のブログでは端折られているがおもしろかった点もいくつか。2節の要約で植村先生は
・哲学史研究に取り組むことは過去の哲学と同じ間違いを避けるために役立つという主張は、哲学的歴史主義を擁護することに成功していない。なぜなら、過去の哲学と同じ間違いをしたくなければ、過去の哲学に近づかないのが一番だからだ。
とだけ書いているが、過去の哲学を研究した結果それと同じ間違いを犯してしまうメカニズムは論文にそこそこ詳しく書いている。ヘーゲルの研究をする人はヘーゲルの思想にいくらか共感しているのであって、そのためにヘーゲルみたいに考えてヘーゲルと同じ間違いをしがちなのである、みたいな感じ。また同じ間違いを避けるためにその古典を読むというのも、よく考えればおかしな話である。何かを得るために読むものなので。というのが聖書を読むことを薦める人に例えて論じられていた。
もう一つ、3節で昔の哲学者は言うほどすごくないと論じられているところにもおもしろいことが書いてある。道徳を学ぶには道徳的に優れた人の言うことを聴きたいが、古典的な哲学者は大抵はレイシストだったりセクシストだったりする、とか。なるほどである。
植村玄輝先生はフッサールなどの古典も現代的な現象学も両方研究している人なので、メタ的な立場としては中立だと思う。これ以降この論文についていろいろ書いておられるが、まだ読んでいないので、読んだらまた何か書きます。
で、私はというと、私は哲学研究室にはいるがやっていることは殆どが形式論理学なので哲学とは事情が違う。いちおう書いておくと、研究している線形論理という理論は1987年に始まったもので、それ以前の論文を研究のために読むことはほぼない。けれど哲学の(易しい)本を読むことや他の人の議論を聴くのは好きである。
研究室の同僚や先生を見るに、古典をあまり読まないタイプの現代哲学をやっている人は多い。古典を読んでいる人は現代哲学というよりは哲学史としてやっている人が多いと思う。「この哲学者はこういう思想だとして現代哲学で取り上げられるが実はそうではなくて〜」というパターンもよくある。これは哲学史の良い研究例だと思う。もちろん現代哲学も哲学史も両方やっている人もいる。古典の研究をする人としない人がどちらも同じ研究室にいるというのはそれなりに良いことだとは思う。研究手法として別でも、有意義なコメントくらいはできるので。
私がつねづね問題だと思っているのは、(主に西洋の歴史上の)偉人の名前を執拗に持ち出す人である。(主にカタカナの)固有名を偏執的に好む人というのがいる。「〇〇はこう言ったがそれに対して□□は〜」とか「これは極めて〇〇的である」とかばかり言ったり書いたりして、それで何か主張した気でいる人である(〇〇や□□にはカタカナの名前が入る)。こういうのは哲学ではないというか学問ではないと思う(哲学史研究でもないと思う)。権威に基いた論証に近く、議論になっていない。偉人カードバトル、偉人スタンドバトルといった趣。本や論文でもこういうことばかり書いている人もたまにいる(と思う)。
もう一つ。例えば道徳や正義を論じたかったら、古典を読むより心理学とか経済学を勉強した方が有意義だと思う。この点はSauer先生に激しく同意する。古典を読むのは歴史的な事実や経緯を学ぶ・研究するのに重要だが(にしても古典を急に直接読むだけでは得るものは少なそうだが)、現実の教訓を得るのは難しいのではないか。
Sauer先生の論文みたいな議論がもっと広まって、偉人の古典の研究というのは「哲学」の研究とはみなされなくなっていくんじゃないかと思う。とりあえずスタンドバトルと経験科学の知識を欠いた哲学はやめてほしい。