前に書いた↓これの続き。
cut-elimination.hatenablog.com
↑ではSauer先生という人の論文と植村玄輝先生によるまとめ↓を取り上げた(Sauer論文のリンクは植村先生の記事内にあり)。
植村先生はその後もいろいろコメントを書いておられる。
植村先生はSauer論文に対する反論の用意もあったようだが、どうも最初の記事がバズったわりにあまり理解されていなかったようで、その後の記事もSauer論文のまとめと敷衍が中心となっている。
私としては、植村先生の記事「その4」で書かれているように、Sauer先生の論証は強力と思っている。歴史的文献を読むことが現代の文献を読むことより重要だ、と擁護することこそ難しいのである。
ただし植村先生は「その2」記事で、
哲学の歴史においてずっと問われてきたわけではないような問題について認識的な目的を達成したいならば、おそらくSauerも、歴史上の哲学者の文献を読むことも時間の無駄ではない(かもしれない)ということを認めるだろう。
と少し哲学史を擁護している。こういう方針で哲学史を研究する哲学者はいるような気がする(具体的な人はちらほら浮ぶ)。ただし、だとすると現状の哲学界は哲学史偏重という印象がある。
また、植村先生は、論証の強力さと結論の過激さとの間には一般にトレードオフがあると指摘し、
何が言いたいのかというと、Sauerの論証を今回の記事のように理解するならば、その結論はそれほど過激なものではないということだ。哲学史について何か否定的なことが述べられると心が動かされてしまうのはよくわかる(私もそうだ)。そういう人は、Sauerの主張から出てくる批判が本当に自分に刺さっているのかどうかを、この記事を手がかりにしてよく確認してほしい。実はその批判が刺さっていなかったという人も多いのではないだろうか。
と述べている(植村ブログの「その4」より)。「実はその批判が刺さっていなかったという人も多い」のかどうか、哲学研究室の人たちにインタビューして調べてみたい(刺さりまくった人に怒られてしまうかもしれないが)。
しかしSauer先生の論文でも少し述べられていたが、哲学史が哲学研究にとってそれほど重要ではないのだとして、ではそもそもなぜ哲学研究において哲学史がこれほど重視されるに至ったのか、これが疑問である。これこそ哲学史を研究することで解明できるのではないか。