曇りなき眼で見定めブログ

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河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその4 ポストフェミニズムの曖昧さと無意味さ

 ↓これの続き

cut-elimination.hatenablog.com

 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 今回は新自由主義とともに本書に頻出する「ポストフェミニズム」という用語について。

 ポストフェミニズムというのはあまり聴かない言葉だが、存在する語らしい。フェミニズム研究家の高橋幸先生の以下の論文で解説されている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/wsj/29/0/29_23/_pdf/-char/ja

フェミニズムへの反動や、あるいはフェミニズムの目的はもう達成されたというような風潮のことらしい。河野先生の本書も参考文献として挙がっていて、新自由主義との関連も書かれている。

 河野先生がどう規定しているかを見よう。河野先生は三浦玲一という英文学者の影響を受けているらしく、ポストフェミニズムも三浦先生の引用によって導入している。以下孫引きする。

 ポストフェミニズムの特徴は、日本で言えば一九八六年〔施行〕の男女雇用機会均等法以降の文化だという点にある。それは、先鋭的にまた政治的に、社会制度の改革を求めた、集団的な社会・政治運動としての第二波フェミニズム、もしくは、ウーマン・リブの運動を批判・軽蔑しながら、社会的な連帯による政治活動という枠組みを捨て、個人が個別に市場化された文化に参入することで「女としての私」の目標は達成できると主張する。このようなポストフェミニズムの誕生は、同時代のリベラリズムの変容・改革とかなりはっきりとつながっている。それは(…)新自由主義の誕生であり、新自由主義の文化の蔓延である。(23−24ページ)

三浦先生の「ポストフェミニズムと第三波フェミニズムの可能性──『プリキュア』、『タイタニック』、AKB48」という論文の64ページからの引用とのこと。

 前回も書いた通り河野先生の新自由主義の規定は割とメチャクチャで、それ故ポスとフェミニズムもなんだかよくわからなくなっている。三浦先生の本論文に当って確認したいがまだ見れていない(見てないのにこんなこと書いてごめん)。

 引用の中で「ポストフェミニズムの誕生は、同時代のリベラリズムの変容・改革とかなりはっきりとつながっている」と書いているが「つながっている」とはなんだろう。新自由主義的な政策が行われたらポストフェミニズムが誕生するという因果関係でもあるのだろうか。それを英文学者が論証するのは難しかろうと思う。その後の文で「新自由主義の文化の蔓延」と書いているが、話題が政治経済から文化にいつの間にかずらされている感じがする。本当にそのような文化があって「蔓延」したのだろうか。論証もないままに自分の得意フィールドに引き込んでいるというか。

 上に挙げた論文の著者の高橋先生がブログで三浦先生の論文を紹介している。

ytakahashi0505.hatenablog.com

これを見ると三浦先生の議論は陰謀論ぽいところがあり、高橋先生は魅力を感じつつ疑いも忘れずという感じである。

 いずれにせよ、三浦先生の論文はプリキュアを論じているようなので、読んでみたい。

 河野先生に戻る。

 河野先生の本書でその後ポストフェミニズムがどう論じられるかというと、新自由主義新自由主義文化が蔓延した結果のポストフェミニズムもよくわからないので、やはり曖昧なまま進んでいく。というかもっと言うと、なんとなく女性や女性キャラが社会で頑張っている様子を雑にポストフェミニズムとくくっているだけに見えてならない。この論じ方の実例も次回以降で具体的に見ていく。

 もう一つ、そもそもなぜ河野先生がポストフェミニズムという語を導入したのかもわからない。ポストフェミニズム的な現状を的確に描いた作品やその現状を肯定するためでも、「ポスト」と言うけれどフェミニズムはまだ達成されていない、だからポストフェミニズム的な主張やそれを含む作品はダメだ、という批判のためでもなさそうなのである。上述するようななんとなく女性や女性キャラが社会で頑張っている様子の状況や作品になんかアカデミックな雰囲気のする語でラベルを貼って満足しているだけのようで、あまり意味を感じなかった。

 

 追記:↓続きはこちら

cut-elimination.hatenablog.com