曇りなき眼で見定めブログ

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河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその3 あれも新自由主義これも新自由主義もっと新自由主義もっともっと新自由主義

 ↓これの続きでごんす。

cut-elimination.hatenablog.com

 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 今回はお待ちかねの新自由主義の話でっせ。

 本書の頻出ワードの一つである「新自由主義」の怪しさについて述べる。私の勉強の範囲だと、新自由主義という政治・経済用語は経済学者よりもジンブン学者とかヒヒョウ家が使いがちで、アカデミックな観点からは要注意の用語である。

 新自由主義批判を批判しているくちなし先生の以下の記事でも河野先生の本書はちょっと出てくる。

kozakashiku.hatenablog.com

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上の方の記事で書かれているようなのの例に漏れず、河野先生の新自由主義論は、定義が曖昧だし、恣意的なレッテル貼りになっていると思う。次回以降も合わせて詳しく見ていきます。

 まず本書から新自由主義の定義らしきものが述べられた箇所を引用する。

新自由主義とは、イギリスであればサッチャリズムアメリカであればレーガノミクスと呼ばれるものから始まった現代の政治経済の名前である(日本では中曽根首相がその時代)。ごく一般的な説明をしておくと、新自由主義は先行する福祉国家を批判した。(25ページ)

しかしこれでは定義になっていない。カッチリとした定義はせずとも、もう少し語の意味する範囲を規定して欲しいと思う。サッチャーレーガンと中曽根では政策も思想もいろいろと違うだろう。「政治経済」というのも漠然とし過ぎているように感じる。政策なのか思想なのか。

 では何をもってこれらの政治家の政治を新自由主義という共通の名前で呼んでいるのか。この後で福祉国家では国有化された産業が新自由主義では民営化されたのが典型として書かれている。これはよく言われる点だろう。中曽根時代の国鉄民営化とか小泉時代郵政民営化が例として挙げられている。

 しかしでは中曽根と小泉の間の総理たちや、その後の安倍晋三なんかは新自由主義なのだろうか、とか突っ込みたくはなる。民営化したものを再び国有化してないので新自由主義なのだろうか。この他に政治家の名前としてはイギリスのブレアが出てくる。ブレアは後期新自由主義だという記述が出てきたが(107ページ)、一般にブレアは新自由主義とは言われないのではなかろうか。この点ももう少し説明が欲しい。河野先生は1980年頃からの英米や日本がずっと新自由主義の政治経済に染まっているかのように書いているのだが、その間も批判や政権交代はあったわけで、それがどうなのか気になる。また、よく知らぬが、社会保障費のGDP比というのはなんだかんだで世界的に増大してるらしいし、福祉国家の構想が廃れたということもないんじゃなかろうか。

 思想的な面では、25ページの同じ段落で「市場の自由とその中での競争」「市場の自由を最大化すれば、経済はもっとうまくいく」というのが挙げられている。これも各国で賛否両論で実際そうなったかどうかは怪しい。また本書で新自由主義な状況として挙げられる労働などの問題は、新自由主義というより情報化とかテクノロジーの発達の影響もあるじゃないかと思う。

 次の段落でこんな奇妙なことが書いてある。

 このような政治経済から出てくる個人の倫理とは「競争」の倫理である。新自由主義は経済的な格差を広げるかもしれない。しかしそれは、公平な条件のもとでの競争のあくまで結果としての格差であり、否定されるべきものではない。また、個人の競争を阻害するもの、つまり集団的な政治(とりわけ労働組合)は否定されなければならないし、個人を市場の荒波から守る中間的なものも取り去られなければならない。サッチャーの有名な言葉「社会などというものは存在しません」は、社会の否定であるとともに、そのような中間的なものの否定である。(26−27ページ)

ジンブン学者はこういう謎の文章をよく書く。まず最初の「個人の倫理」「「競争」の倫理」の意味がわからない。チャリタブルに読むと、そうした政治や経済の状況の中では個々人は競争が奨励されることに文句を言ってはいけないという風潮になる、とかそんな感じだろうか。「否定されなければならない」とか「取り去られなければならない」というのは新自由主義社会の人びとの多くがそう考えがち、ということだろうか。だがサッチャーが言っているということは政治家の思想の話なんだろうか。混乱しているように思う。そもそも「政治経済から出てくる」というのも奇妙である。ジンブン学者はしばしばこうして社会の流れと個人の態度が直結しているかのようなこと書くが、社会の風潮に反対する人はたくさんいる。また、公平な競争をしたかったらむしろ政治は介入を強めて個人を市場の荒波から守るべきという状況もある気がする。よって「競争」が河野先生の想定する新自由主義の何もかもの「倫理」になっているわけではなかろう。

 

 そんなわけで河野先生の新自由主義概念の規定がそもそも怪しいわけだが、さらにここからが今回の言いたいこと。

 上の引用のような具合に、新自由主義は政治経済の話だったはずが、いつの間にか個々人の内面の話に拡げられ、結果なんでもかんでも新自由主義が態度や創作に影響を与えたことになっていく。もっと言うと、河野先生が作品から新自由主義の匂いを嗅ぎ取った瞬間その作品はもう新自由主義的だ、ということになる。新自由主義もよく定義されないままに創作者の意図もキャラクターのセリフも何もかもが「新自由主義」だということになっていく。本書の「新自由主義的」なるレッテル貼りがいかに酷いかは次回以降で具体的に見ていきます*1

 

 本書は政治経済学の議論をまったく参照しないために俺様な議論になっているのかというと、そういうわけでもない。社会学者とか政治哲学者とかそれ系の人が書いた本がたくさん参照されている。しかしたぶん河野先生は古典的な経済学をよく知らないだろうなとは思う。詳しい人が本書を読んだら「あ〜こういう本ばかり読んでたらそらこういう認識になるわな」と思うんじゃなかろうか。私は経済学は↓の本を読んでちょっと勉強しただけだが、それでもそんな気がした。(追記:こんな皮肉めいたことを書いたけど、このヒース先生の本も詳しい人から見たらあまり良くないというタレコミが入った。↓のコメント参照。どういう経済学の本を読むべきかわかっていないのは私のほうもそうなのである(さらなる追記:また別の人から別のところで、ヒース先生の本は↓のコメントの人が言うほど入門書として悪くもないんじゃないかと助言をもらった。↓のコメントとリンクの記事が随分辛口だったのでビビって鵜呑みにしてしまったが、いろいろ難しいようである。また何かあったら教えてね、みなさん(さらにさらに追記:ジョセフ・ヒースの哲学や著作に詳しいくちなしさんがコメントに貼られたnote記事に反論して同書を擁護する記事を書いてくださっている。

『資本主義が嫌いな人のための経済学』の誤謬? - 清く正しく小賢しく

上の私の適当な記述が発端の一つになって論争みたいになってしまって申し訳ない。私は経済学は入門中でどちらが正しいか正確な判断はできない。頑張って勉強します。)))

 

 追記:↓続きはこちら

cut-elimination.hatenablog.com

*1:本記事のタイトルの意味はだんだんわかってきます。