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河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』
今回は宮﨑駿監督『魔女の宅急便』について。
113ページで、以前に触れた三浦玲一先生を引用して「『魔女の宅急便』は郵政民営化の物語である」と書いているのだが、これの意味するところがわからない。もちろん『魔女の宅急便』という作品に郵政民営化という出来事が登場するわけではないので、「郵政民営化をモチーフとした物語」ではない。じゃあ三浦先生と河野先生はどういう意味で書いているのだろう。
宅急便の話ではあるが、だからというわけでもないらしい。そもそも郵政と宅急便はちょっと違う。
河野先生はこんなことを書いている。
それを前提として、キキの労働がどのように描かれているかを見ていくと、キキが魔女見習いとして暮らすことになった町で、みずからの職業として選ぶ宅急便というものが、クリエイティヴな自己実現をともなう職業として描かれること、そこにこの物語が郵政民営化の物語であることの真の意味──これが新自由主義的でポストフォーディズム的な物語であるということ──があると分かるだろう。(114ページ)
なのだけれど、この後を読んでも真の意味というのが分からないのである。何か精神のレベルで郵政民営化政策と本作の労働観が似ているということなのだろうが。「真の意味はこれです」と述べてほしかった。
知的な議論というのは「郵政民営化の物語」のようななんかすごそうなフレーズを作ったり引用したりして誇示することではない。私のイメージだと、哲学の訓練を受けていないのに分厚い哲学書を読む(読めたと思い込む)タイプのジンブン学徒がそう勘違いしがちである。語はなるべく明確に。もちろんカッコいいフレーズを作って読者を飽きさせない工夫をすることも大事だけれど、その場合はちゃんと定義なり詳しい説明なりをすべきである。
本書の『魔女の宅急便』論はたいへん問題が多いので、何回かに分けて書きますね。今日はこの辺で。
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