曇りなき眼で見定めブログ

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河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその15 唐突なアイドル論

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 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 今回で『魔女の宅急便』論批判は終る予定。

 本書の『魔女宅』論中で強烈に違和感を感じた*1箇所があるのでそれについて書く。本書全体のなかではほんのちょっとした箇所なのだが、物凄く変な箇所がある。

 『魔女宅』の終盤で、キキがトンボを救助するために奮闘しそれを街の人やテレビ中継を見ている人たちが応援するわけだが、河野先生はそれをキキがアイドルと化したというふうに書いている。そしてキャラクターがテレビを見る描写は観客が映画を観ることの投影と論じ、次のように書く。

 そのようなメカニズムによって、キキがスクリーンの向こうの存在であること、つまりアイドルであることが強調される。そして、アイドルといえば、日々ブログなどSNSを更新し続け、キャラ立ちをしようとする近年のアイドルグループの労働は、ポストフォーディズム的なアイデンティティの労働の戯画に近づくような労働である(錦織、板倉)。キキはそのような意味でのアイドルになる。アイデンティティの労働の化身となるのだ。玄関の前で営業スマイルを作っていたキキから、さらに一歩進んで、全存在(アイデンティティ)を労働に提供するキキの完成である。クライマックスの事件をメディア・イベントとすることによって、労働の隠蔽は完成する。(120−121ページ)

 ここでアイドルが出てくるのは唐突である。本書ではアイドルはテーマになっていない。しかもアイドルと言ってもAKB48が念頭にあるようで(文献として挙げられている錦織と板倉の論文・本はどちらもAKB論)、映画の公開と時期があっていない。

 論理展開に何重かの難点がある。まず、キキの何がどうアイドルなのかわからない。べつに歌って踊っているわけではないのだから。次に、AKB以降のアイドルが河野先生の思うポストフォーディズム的な労働をしているとして、それをキキがやっているわけではない。キキがアイドルっぽい振舞いをしたこととアイドルがポストフォーディズムっぽい労働をしていることからキキがポストフォーディズムっぽい労働をしていると導かれるわけではない。また、トンボの救助は労働ではない。なのでアイデンティティの労働というものがこのシーンで描かれたようには思えない。

 その結果、やはりここでも濁したような言葉遣いが出てくる。「キキはそのような意味でのアイドルになる」とあるが、「そのような意味」がどういう意味かはわからない。「隠蔽」というのはやはりここでも誰が何をどういうメカニズムで隠蔽しているのか定かでない。

 それと錦織さんと板倉さんの文献は、もう少し何ページのどういう議論を参照したか細かく書くべきではなかろうか。

 という感じ。

 

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*1:私は「違和感を感じる」という表現に違和感を感じないのでこう書く。