曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその11 アイデンティティの労働

 ↓これの続き

cut-elimination.hatenablog.com

 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 前回はアイデンティティ管理という概念がよくわからないと書いたが、今回はそれと関連する「アイデンティティの労働」なるものについて。106ページあたりから論じられている。

 河野先生はいろいろな社会学者や人文学者の名前とその引用を示してアイデンティティの労働を説明しようとしているが、やはりよくわからない。引用と言っても断片的な言葉を引くだけで議論がない。またどの引用元も「アイデンティティ」を論じてはいないため河野先生の論じたいアイデンティティというものがそれらの学者の説とどう結びついているかもよくわからない。

 そして以下のようにフェイスブックと繋げられる。

 もうひとつ、アイデンティティの労働の背景にあるのは、いわゆる消費社会であることも指摘しておく。つまり、生産ではなく消費が中心となった社会のことであるが、ここで重要だと思われるのは、たとえばフェイスブックにおけるように、財と富を生産する労働と消費の行為とがごたまぜになってしまうことだ。つまり、フェイスブックにページを持ってそれを運用することは、顧客としての消費の行動のはずである。ところが、フェイスブックにとっては、それらの個人のページの集積こそが富なのだ。(108ページ)

ここも相当に意味がわからない。「生産ではなく消費が中心となった社会」というが、生産と消費は連動するものなので、どのような社会を指すのかわからない。「ごたまぜ」の意味もわからない。ごたまぜだと何か悪いのだろうか。「ところが」は何が「ところが」なのだろうか。

 引用箇所は次のように続く。

これは、マクドナルドにおいて顧客が(配膳やゴミ捨てといった)労働をしていることと通底しているだろう。また、それとは逆に、労働(職業)でさえも消費財のようにあつかわれるという逆転が起きている。現代の消費社会においては、職業でさえも消費者がするように柔軟にとっかえひっかえすること、できることが推奨されるのだ。その状況のほとんどグロテスクなまでのパロディかと思わされるのが、職業テーマパークであるキッザニアだろう。そこに集まる客である子供たちは、商品である職業をつぎつぎに消費する。それは職業アイデンティティを消費しているとも言いかえられる。(109ページ、太字は原文では傍点)

「通底」という曖昧な言葉も議論の曖昧な点をごまかすために使われがちである。フェイスブックとセルフサービスの飲食店の何がどう通底しているのかもう少し説明が欲しい。また労働と職業を同一視するのは議論として雑な気がする。職業をとっかえひっかえしたとしてもある程度の給料が貰える労働をするということはやめられないので。またキッザニアが唐突に出てくるが、本書ではここにしか出てこない。思いつきで書いただけだろうか。子供がいろいろな職業を体験することと労働者が職業を変えることはまったく違うと思う。そしてここでもマクドナルドやキッザニアを批判したいのかしたくないのかよくわからない。そういうものが嫌いだということが匂わされてるだけになっている。

 ちょっと長くなりそうなので次回に続く。ここまででは結局アイデンティティの労働がなんなのかわからないが、次回は定義らしきものを取り上げる。

 

 追記:↓続きはこちら

cut-elimination.hatenablog.com