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河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその14 「旧来の型の労働の隠蔽」に陰謀論の匂い

 ↓これの続き

cut-elimination.hatenablog.com

 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 『魔女の宅急便』論批判のメイン回でごんす。

 前回見た通り、河野先生はキキの仕事はポストフォーディズムアイデンティティや感情を活用するクリエイティヴなものと考えている。その論証は強引で説得的でないがそれはさておき、そうした議論に続いて以下のように述べる。やはり問題が多い箇所である。

 そして決定打は、魔法の力の源をめぐる対話である。キキは、魔女は血で飛ぶのだと説明する。ウルスラはそれを聞いて納得したように、「魔女の血、絵描きの血、パン職人の血」と列挙する。ここでウルスラは驚くべき敷衍と、それによる転倒を行なっている。まず、魔女の血と絵描きの血までは結構だ。ここまでの議論の通りである。つまり、そこでは職人を保証するのは外的なスキルではなく、アイデンティティである。しかし、最後のパン職人の血は何か? ここでは、ひどいカテゴリー・ミステイクが起こっている。ここまで『魔女の宅急便』が規範的なものとして示してきた職業と労働は、アイデンティティの労働であり、感情労働であった。パン職人は、魔女や画家との対立においてはフォーディズム的なモノ作り、物質的生産の職業である。しかるにウルスラはさりげなく、そのような職業をアイデンティティの労働の列挙の中に忍び込ませているのだ。(118ページ)

まず混乱があるように思われるのは、「ここまでの議論」では魔女と画家はクリエイティヴな労働という点で似ているとキキとウルスラの間で確認されたというものであって、アイデンティティについては述べられていない点である。河野先生はアイデンティティと感情とクリエイティヴィティをいっしょくたにしているが、これらは違うものに思える(また以前に確認した通り、アイデンティティの労働は本書や三浦玲一の独自の考え方でしかも不明瞭な概念であることにも注意したい)。「血」というキキとウルスラの表現はアイデンティティについて譬喩的に言っているように思えるが、パン職人であることがアイデンティティであってもなんらおかしくないのであり、アイデンティティが特に魔女と画家という職業にのみ当てはまるものだとは「ここまでの議論」では確認されていない。そういうわけなので、「ひどいカテゴリー・ミステイク」といってもそのカテゴリーはこの段落で突如として出てきたものである。魔女も画家もパン職人も「血」と言っていいほどのアイデンティティになりうる職業と考えてなんら不思議ではなく、河野先生がここで想定しだしたカテゴリーこそ不当に思える。

 河野先生は、魔女の宅急便業や画家はアイデンティティになりえて豊かな感情が原動力になってクリエイティヴだがパン職人はそうでない、という図式を作りたいようである。次の段落ではこう述べられる。

 まったくもって皮肉なのは(これは意識的な皮肉なのだろうか?)、劇中に登場する当のパン職人が、感情労働の対極にいることだ。パン職人とはおソノの夫(原作での名前はフクオだが彼も名前は出てこない)であり、彼は、わたしが正しければ、うなり声や「おい!」など、三つの台詞しか与えられておらず、寡黙な職人そのものといった風情である。(118−119)

確かにこのフクオは寡黙だが、感情を表に出さないというだけで感情を込めて仕事をしていないわけではあるまい。またこの「グーチョキパン店」というパン屋は見たところそこそこクリエイティヴなパンを出している(店名もクリエイティヴである)。そして、前々段落ではクリエイティヴィティの話、前段落ではアイデンティティの話をしていたのに、この段落では感情の話をしている。この三つを混同する河野先生こそ「ひどいカテゴリー・ミステイク」をしているのではなかろうか。

 河野先生はフォーディズムへの理解が少しおかしい気がする。

 フォーディズム労働者の典型であるようなフクオをアイデンティティの労働者に無理矢理に引き入れるときに、何が起きているのだろうか? それは、前節の引用で三浦が述べていた、「旧来の型の労働の隠蔽」である(引用者注:「その12」記事で引用した)ウルスラによる列挙は、この世はそのようなアイデンティティ労働で覆われており、旧来型の労働は消滅したのだ、というビジョンを提示している。作品全体としては、パン職人というフォーディズム的労働者をいったんは表象しておいて、それをアイデンティティの労働の側にカウントするという、かなり巧妙な隠蔽戦略が行われているのだ。職業と労働をテーマとするかに見える『魔女の宅急便』は、その実労働の終焉をテーマとしていたのである。そして労働が終焉した世界観によって、キキのような労働力はやりがい搾取されていくのだ。(119ページ)

フォーディズムというのは私のイメージでは巨大な工場で大量生産するために労働がマニュアル化するものだ。街のパン職人はフォーディズム労働者には見えない。

 そして「その12」でも述べたが「隠蔽」という考え方には陰謀論の匂いがする。角野栄子先生や宮﨑駿監督が誰から何を隠蔽しようとしていると言うのだろう。「労働の描写に整合性がない」などの評価をすればよいものを、なぜ「隠蔽戦略」というもっと大いなる意図があるかのような不穏な書き方をしてしまうのだろう。「ビジョンを提示」という表現も不明瞭でかつ過度に不穏で良くない。もうちょっと具体的に中立に書くべきだ。

 また「労働の終焉」とはどういう意味だろう。この議論の流れでは「フォーディズム労働が行われているにもかかわらずそれがポストフォーディズム労働の一種であるかのように描いている」となるはずで、「終焉」まで言う必要はないだろう。

 「やりがい搾取」というのも唐突である。キキは自営業だし自発的に始めた仕事なので「搾取」はされていないだろう。ここでも「搾取」する謎の巨大な勢力を無意味に想定してしまっているように思える。

 さらに『魔女宅』論批判が続きます。

 

 追記:↓続きはこちら

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