曇りなき眼で見定めブログ

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『フィルカル』Vol.9, No.2に「「作画が良い」とはどういうことか」というアニメ哲学論文が載りました

 ↓こちらに「「作画が良い」とはどういうことか」という拙論文が載っております。

書店にも並んでいて、気が引き締まる思いであります。

 タイトルの通り「作画が良い」というのが何を意味するのか論じている。それに加え、作画を批評するとはどういうことか、どう作画を批評すべきか、というのも考えてみた。

 哲学雑誌にアニメの作画を論じた論文が載るのは珍しいのではないか。拙い論文ではあるが、論文の査読者や編集者には作画というテーマの着眼点を評価してもらったようである。議論の中身は突飛ではないと思う。

 『フィルカル』は最近は堅めの哲学論文が多いが、初期の頃は私の論文のような荒削り気味のカルチャー論が多かった。そういうのを読んで私も書けそうだと思ったのが執筆動機であった。

 それともう一つ、『すごい哲学』という本の森功次「ヘヴィメタルをヘヴィにしているものは何か」という記事にも影響を受けた。これのアニメ作画版を考えたのが本論文というわけだ。

 議論を構成する際に心掛けたのは、アニメの実制作者や実制作の現場に詳しい研究者・ライターの言葉を多く引用することである。「描写の哲学」という分野でアニメを題材にした論文はいくつかあるが、そうした論文は足場を哲学に置いている。私は足場をアニメに置いて哲学的な論文を書いてみた。そういう論文もあったほうが世の中のバランスが取れて良いだろう。もちろん私が美学・芸術哲学をよく知らないからという理由もあるが。

 美学・芸術哲学に詳しくないので、英語の論文が参照されていない。翻訳か日本のものばかり。しかし、アニメという日本発のジャンル(「アニメ」と欧米などの「アニメーション」が異なるというのは論文のなかで詳述している)を論じるのに、英語の最先端の論文はそれほど役に立たないと私は思う。

 また、作例としてできるだけバラエティに富んだアニメ作品を取り上げることも意識した。著者の趣味に偏りすぎてはいけないだろうと思ったので。いろいろな作品を取り上げて論じることで、アニメやアニメ作画の特質がわかるというもの。

 

 反省点も書いておく(まだ読んだ人も少ないだろうに反省点を書いてしまったら蝶野・橋本戦の前のアントニオ猪木に怒られるかもしれないが、まあメモとして。言い訳にならない程度に)。

 査読対応をダラダラしすぎて時間がかかってしまったのだが、それで掲載が決まった後にふたたび新鮮な気持ちで論文を校正していたら、文章が下手すぎて驚いてしまった。精進します。特に気になったのが、注に回したほうが良さそうな煩雑な議論が本文に残ってしまっている箇所。これは今後気をつけたい。

 それから、執筆当時猿渡哲也先生の漫画にハマっていて、それに影響されて「アニメ・ファン」みたいに「・」を多用してしまった。いま考えたら意味がなかった。

 また「芸術」を「藝術」と書くこだわりが残っている。これは当ブログでもそうしている。「藝術」と書くほうが正しいからとどこかで読んだので。しかし論文でまでこだわる必要もない気がする。本記事の時点ではもはやどうでもよくなっていて「芸術」と書いている。