曇りなき眼で見定めブログ

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「作者の死」を水戸黄門の印籠みたいに持ち出すんじゃあないよ(作者の意図論争とロラン・バルト)

 作品を解釈するとは作者の意図を突き止めることなのか!? という論争がある。ある人はそうだと言うし、またある人は作者の意図は解釈に関係ないと言う。分析哲学でもそうした論争があって神雑誌『フィルカル』で特集されている(まだちゃんと読んでいないが)。

とはいえ最近では、解釈は作者の意図の解明で尽きているとか、あるいは解釈に作者の意図はまったく関係ないとか、そういった極端なことを言う人は少ないと思う。私自身は仮説的意図主義といって、作者の意図は重要だがそれが全てではない、ぐらいの主張が良いと思っている。

 ところがどっこい、こうした分析哲学を通ってきていない、大陸系現代思想や伝統的な文学研究を学んできた人は、解釈に作者の意図はほぼほぼ関係ないという主張をしがちである。よくトゥイッターで見る。で、そうした人たちはロラン・バルトの1968年の論文「作者の死」を持ち出しがちである(「作者の死」は↓の本に邦訳が入っている)。

 「作者の死」論文はタイトルの通り「作者の死」を宣告するものである。作者は死んでいるのだから、作者の意図は関係ない、というのがトゥイッターでよく見る主張だ。「作者の死」なる概念は言葉としてもかっこいいし魅力的に映る。しかしこれを水戸黄門の印籠みたいに持ち出して「「作者の死」からもわかる通り作者の意図なんて解釈に関係ないよ」と言ってはいかんと思う。このことについて書いておく。

「作者の死」にショックを受けたとしてもそこで止まっていてはいかん

 文学を学んできた人は、人生のどこかで「作者の死」概念にショックを受ける時期というのがあるのかもしれない。「作者の考えを述べよ」式の国語教育から抜け出せた解放感もあるのかも。

 しかしそこで止まってはいけない。バルトの論文は1968年という大昔であり、そこから議論の進展もあるはずだ。ショックを受けたとしても、今度は作者の死という概念をさらに疑うべきである。これが知的な態度というもの。

 またもっと大きな枠で見てみると、バルトはいわゆるポストモダン/ポスト構造主義に分類される学者である。しかしこの一派の学問は、今では大幅に修正を迫られている。ポストモダンに魅せられる人は多いが、魅せられてばかりではいかんのである。知識のアップデートが重要。

実際に「作者の死」を読んでみると…

 このたび私は「作者の死」ちゃんと読み返してバルトの議論を追ってみた(バルトは美文家なのでやや議論を追いづらいが頑張った)。実はちゃんと読んでみると、バルトは「作者の意図は関係ない」とは言っていない。

 「作者の死」という言葉で意味しているのは、作者の意図が解釈に関係ないということではなく、絶対に確かな個人としての作者などいない、ということである。作家はいろいろな先行作品に影響を受ける。とすると、いわゆる作者にすべての意図を帰属させることはできないのではないか、そんな感じである。これをよく考えていくと、解釈に関する論争というより作家の意図とは何かという論争になる。

 もう一つバルトの議論で重要なのは、作品(バルトの用語ではテクスト)が完成するのは読者が読んだときだ、というもの。これは論文の最後で述べられるにとどまるが、文学論は作者でなく読者を重視すべしという論点で、当時としてはかなり斬新だったらしい。この議論は「作者の意図など関係なしに読者が勝手に読んでいい」と読み取れなくもないが、バルトはそこまでは書いていない。バルトの意図を重視して解釈するに、作者の意図した以上のことを読者が補って初めて作品が完成することもある、ということだろう。あくまで補うのが読者の役割ならば、作者の意図は無関係ではない(これは私がバルトの意図を補った結果なので確かではないが)。よってバルトの議論は「作者の意図は解釈に関係ない」という主張の根拠にはならない。「作者の意図で解釈のすべてが決まるわけではない」というもっと弱い主張の根拠にはなろうが。これは微妙だが重要な違いである。

まとめ

  • ポストモダンはいまや最先端の学問ではない。アップデートしよう。
  • バルトのもとの論文をよく読もう。
  • できたら分析哲学の議論も参照しよう。