曇りなき眼で見定めブログ

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『分析フェミニズム基本論文集』を読む・その6 エリザベス・アンダーソン「社会制度が持つ徳としての認識的正義」

 ↓これの続き!

cut-elimination.hatenablog.com

↓この本の論文を順番に読んでいくシリーズ!

6つ目はエリザベス・アンダーソン「社会制度が持つ徳としての認識的正義」飯塚理恵訳。

 この論文はミランダ・フリッカーという人の『認識的不正義』という本への反論ないし補完的議論として書かれている。『認識的不正義』は飯塚先生らによる翻訳が今度出るらしい↓。

アンダーソン先生の論文は言葉は難しいが議論は平明だったので良かった。

 まず認識的不正義とは、認識論的な、つまり知識に関する実践において社会的に弱い立場のアイデンティティを持った人が不利益を被ってしまうような状況である。フリッカー先生によれば証言的不正義と解釈的不正義に分れる。証言的不正義とは、特定のアイデンティティを持った人の証言の信用が割引かれてしまう事である。解釈的不正義とは、特定のアイデンティティを持った人は何か良くない事態を解釈する際に上手く解釈する言葉などを持たない場合があるという事である。更にアンダーソン先生によれば、正義には取引に関するものと構造に関するものがあり、フリッカー先生は証言的不正義を取引に関するもの、解釈的不正義を構造に関するものとして描いているとか。取引は個人間の事で構造は集団のものである。しかしアンダーソン先生によれば、証言的不正義も構造に関するものである場合がある。

 フリッカー先生は認識的不正義を正す為に個人の徳に訴えるが、アンダーソン先生はそれでは不十分で制度を考える必要があるという訳である。フリッカー先生は取引に関する認識的不正義は勿論、構造的な認識的不正義さえアイデンティティに対する個人の偏見に由来するとするが、アンダーソン先生の反論は以下のようになる。

 フリッカーは認識的不正義への対策として、個人の持つ認識的徳を強調したのだが、この考えに関して、私たちは二つの仕方で反論できるだろう。一つ目は、個人の持つ認識的徳は、取引に関する認識的不正義でさえ効果的に防止することができないかもしれないという点である。二つ目は、局所的に見れば落ち度のない原因から生じ(すなわち、偏見はない)、かつ、構造的な対策が必要となりうるタイプの構造に関する認識的不正義は、個人の持つ認識的徳では対処できないかもしれないという点である。(196ページ)

どちらも心理学を援用して認知バイアスがあるという事を根拠に議論している。一つ目の反論は自分では気付かない偏見があるので徳ではどうにもならないという事、二つ目の反論は個々人は偏見を持っていないのに集団ではおかしな認識をしてしまうという現象が根拠である。制度を改めるのはタイトルにある通り個人でなく社会の徳であるよと。

 なかなか説得力のある議論であった。こうなってくると、あんまり制度増やすなというリベラリズムとの対立になってくるか。あと認知バイアスを正す為にナッジとかを使うことになるかもしれず、ナッジはナッジで問題あるだろうし。しかしこうした事に私は全然詳しくないので今回はこの辺で。

 

 認識的不正義は最近の認識論の教科書↓でも取り上げられていた。