曇りなき眼で見定めブログ

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「現代思想」の反出生主義特集を読むその3 鈴木生郎、佐藤岳詩、加藤秀一、西條玲奈

 シリーズ第3回。

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 今回取り上げる四本はどれも現代哲学の最先端の論考である。骨太である。

鈴木生郎「非対称性をめぐる攻防」

 鈴木先生は『ワードマップ 現代形而上学』という本の著者の一人で形而上学が専門である。でこの本はなかなか素晴しい本でこれで勉強した私は思い入れが深い。

 さて本論考はベネター先生の議論の中でも特に非対称性によるものを取り上げて批判するものである。しかし全体の構成はベネター先生の議論をまとめてさらにマグヌソンとブーニンという二人の先生の批判を取り上げるというもので、鈴木先生自身の見解というのはいまいち見えてこない。こういう論文はJ哲学を標榜する森岡正博先生なんかは不満だろうなあと思った。

 それはさておき。まず第一のマグヌソン先生による批判とは、快楽と苦痛の非対称性の議論における、快楽と苦痛があることやないことによる良さや悪さが誰にとってのものかを考えると、非対称性は消滅する、というものである。誰にとってかという点の掘り下げが不十分なのは直後の佐藤先生の論考でも触れられている。ベネター先生は苦痛の不在の良さは可能的人物によって良いのだと述べている。だとしたら快の不在はその可能的人物にとって悪いのではないか、というのがここでの批判である。

ベネターがいう可能的人物は、生まれてきた場合には苦痛を避けたいという関心をもつとされる。しかし、そうであるならばこの人物は、当然生まれた場合には快楽を得たいという関心ももつはずだろう(もたないとすればかなり異様な人物である)。すると、この可能的人物が実際に生まれずに快楽を得られないことは、この人物の関心に合致しないので、この人物にとって悪いと言わざるをえないはずである。(119ページ)

 私はこれは違うと思う。後の佐藤先生の論考でも少し触れられているが(129ページ)、ベネター先生のいう非対称性では快楽の不在は奪われていないのであれば悪くないということである。可能的人物が生れなかったらその人物にとって快楽はもとからなかったのであるから奪われたことにはならない。鈴木先生は非対称性の議論をまとめたところで「快楽が生じないことは、現に存在する人が快楽を得る機会を奪われているという場合でないかぎりは、悪いことではない。」としている(119ページ)。しかしベネター先生の原文に「機会」という言葉はない。機会という言葉は誤った方向へ誘導している感じがする。存在しなかったら機会はなくなるだろうが、快楽を得ることそのものは「奪われ」はしないのだと思う。しかし私もあんまりうまく書けている気がしなくて自信がない。

 もう一つはお馴染み(?)の四つの非対称性の最善の説明論証に対するブーニン先生の批判である。これに対してはベネター先生も前回取り上げた論文で反論している。鈴木先生はその反論はあたらないとしている。ブーニン先生は鈴木先生が「生殖の選択に関する非対称性」と呼ぶ非対称性を導入し、これが四つの非対称性の最善の説明になっていると主張する。それとはすなわち、幸福ばかりの人生を送る子どもをつくる祝福されたカップルと不幸ばかりの人生を送る子どもをつくる呪われたカップルとを想定し、以下を考えることから定義される。

…幸福な子供が生まれる場合には、カップルが子供をつくる選択をしても、つくらない選択をしても、現実の子供は不幸にならない。しかし、不幸な子供が生まれる場合には、一方の選択(子供をつくる選択)をすると、現実の子供を不幸にする。これが、ブーニンにとって重要な非対称性である。(121ページ)

 私はこれは変だと思う。少なくとも最善の説明を提供するとは思えない。逆も言えるからである。すなわち、不幸な子どもが生れる場合にはどちらの選択をしても現実の子どもは幸福にならないが幸福な子どもが生れる場合には一方の選択では現実の子どもを幸福にする、という非対称性も言える。何故ブーニン先生のほうの非対称性が優先されるのかわからない。不幸を避けるほうが大事という他の原理が想定されているのだろうか? だとしたらベネター先生の非対称性のほうがよりシンプルで包括的に思える。鈴木先生によるとベネター先生の反論は、ブーニン先生が生殖の義務に関する非対称性を生殖の選択に関する非対称性から説明する際に導入したAPPという別の原理への批判に過ぎず不十分だと注で述べている。しかし、私は生殖の選択に関する非対称性は成立していないか説明として不十分と思っているので、APPがダメならばブーニン先生の説はやはりダメということになると考える。

佐藤岳詩「ベネターの反出生主義における「良さ」と「悪さ」について」

 この特集中で最も重厚な論文であると思う。佐藤先生は気鋭の倫理学者で、さすがだと思った。しかしいろいろな点で私は賛同しかねる。

 佐藤先生の議論の構成は、ベネター先生の基本非対称性における「良さ」「悪さ」は絶対的なものか相対的なものかを考え、絶対的ならば非対称性は消滅し相対的ならば反出生主義と齟齬をきたす、また基本的非対称性を欠いた反出生主義は説得力を欠く、という三段階である。

 相対的か絶対的かというのは、良さや悪さが誰か(何か)にとってのものかそれ自体としてか、ということである。鈴木先生のところで述べた通り、私は相対的と考えれば非対称性は成り立つと考える。佐藤先生もそう書いている。なのでここは良い。ひとつ指摘しておきたいのは、佐藤先生は苦の不在は「悪くない」と考えていることが述べられているのだが、ベネター先生の前の論文いわく苦の不在の良さは苦の存在に対する相対的なものらしいので少しズレているように思った、ということである。これについては後でも出てくるのでそこで詳述する。この議論の流れでベネター先生の功利主義観に触れているのだが、ここはさらに注目である。ほとんどが注で処理されてしまっているのだが、私にはこれがめちゃくちゃ重要であるように思われる。

(ベネターの引用)「更なる幸福をもたらしてくれるから人々には価値がある、というのはおかしい。そうではなく、更なる幸福は人々の人生をより良くしてくれるからなのだ。そう考えないと人々を幸福を入れる単なる器だと個々人を見なすということになる」。しかし、これはベネター自身の福利論についての実質的な主張であって、現に個々人を単なる器だと見なす功利主義に対する決定的な反論にはならない。(133-134ページ)

幸福は人々にとって良いのであって、幸福の総量を増やすために人を作るのは本末転倒ではなかろうか、ということだ。私はこれはベネター先生の功利主義批判と受け取った。ベネター先生のいち考えであって功利主義への反論ではない、とは思わない。実はこの功利主義批判こそ非対称性の根底にあるのではないかという気もしているのである。

 

 では相対的だとするとどういう問題があるか。佐藤先生は否定的責任と完全な相対性という二つの論点を使って反出生主義という主張は正当性を欠くと述べている。否定的責任の議論において、佐藤先生は二つの思考実験(と言って良いのか分らないが)を提示している。まず、

今この瞬間にも、論理的には、私のせいで存在してしまう可能性があるが実際には存在しない無数の私(以下、現在のこの私と因果的なつながりをもって存在してしまう可能性があるが、現在は存在していない私をYとしよう)がいるだろう。ここでそれぞれの彼らを現実に存在させていないことが彼らにとって苦痛の不在という意味で、「より良い」ことであるなら、私は寝ているときですら無数のYたちに対して、「より良い」ことをし続けていることになる。

これはベネター先生が、もし子どもを作っていたら存在していたというような可能的な人物の存在を持出していることを受けての議論である。それを受入れるのならばこのような議論も成立するだろうということだ。しかしこの辺りからどうも佐藤先生は「存在すること」と「存在してしまうこと(coming into existence)」の区別、そしてそれによる「存在すること」と「存在させること(「存在してしまうこと」の使役形)」の区別を軽視しているように見受けられる。無数の私はどれも私だが、可能的な子どもは新しい存在である。これは続く第二の思考実験でより明らかとなる。

 他方で、私は「より悪いこと」もし続けている。というのも、私は存在をやめることなく生き続けていることで、可能性でしかなかった様々な自分を現実の存在にし続けているからだ。一〇分後の私はまだ存在していない。今、私が研究室の窓から飛び降りたなら、一〇分後の私はそのまま永遠に存在しないだろう。しかし、それだけではない。それは一年後の私や一〇年後の私を存在させないことでもある。存在しないことでYにとっての「良さ」を享受できたはずの無数の未来のYたちを存在させてしまうことを、私は今、窓から飛び降りないことで選択し続けている。現在の私は未来のたくさんのYに対して、悪いことをしているのだろうか。(130ページ)

反出生主義の論点は「存在すること」あるいは「存在してしまうこと」が「害悪」であるが故に「存在させてしまうこと」が「悪」だということである。苦の不在は良い、快の不在は悪くない、故に「存在させてしまうこと」は悪い、「存在すること」でなく、こういう議論の経過を辿る。よって「存在し続けること」が常に悪いことという訳ではない。生き続けることが「存在させ続けること」であるようには私には思えない。単に今ある存在を続けているだけだろう。よってこの思考実験には無理があると私は考えるのだが、その無理は佐藤先生が「存在すること」と「存在させること」の区別を軽視したために生じたのではないかと思う。この区別をしないためにかなり危うい形而上学に陥ってしまっている。この結果例えば、「存在させる」というように使役形を使っていることからも分るが、佐藤先生は未来の自分を他者と考えてしまっている(後でもう一度触れる)。しかしこれはおかしな主張であるように思える。自分は自分である。また「可能性でしかなかった様々な自分を現実の存在にし続けている」と書いているが、これは書き方に問題があり、単に自分が死なずに存在し続けているということを「存在にし続けている」という大袈裟な表現で歪めてしまっていないだろうか。もしかしたらここはもっと四次元主義とかを持出して議論すべきなのかもしれない。その辺りは今後の課題とする。

 さて、これらの思考実験が成功しているとしたら以下のようなことが言えるという。

 この二つの事例から見られるように、不作為がもたらすすべての因果的結果に良い・悪いを割り振ってしまうと、現在の私の責任が無限に重くなってしまうという、直観に反する帰結が生じるというのが否定的責任の問題である。それを避けるためには、このような不作為から導き出される帰結は「良い」というよりは、せいぜいが「良いことも悪いこともしていない」とみなすほかない。しかし、その道はベネターが非対称性を主張し、苦痛の不在はYにとって「より良い」とすることで、閉ざされてしまうのである。(130ページ)

この結論は思考実験が失敗していたとしても成立つ可能性はあるが、しかしベネター先生が以下に述べることに注意すれば、反出生主義の議論においては反直観的なことは何も起きていないように思える。佐藤先生は苦痛の不在を「悪くはない」と考えているのだが、少し前で述べたように苦痛の不在の良さを勘違いしている。同じことが前回取り上げたベネター先生の論文で、もう一つのメッツ先生の論文に対する反論として取り上げられているのである。

 次に苦の不在へのメッツ教授の評価だ。彼はそれを「悪くはない」と言う。私はXが存在していない場合の苦の不在と快の不在を評価するにあたって、それらの存在しない経験に内在的価値についての主張をしているわけではないとはっきりと述べたはずだ。そうではなくて私はそれらの相対的なーXが存在するシナリオと比べて相対的なー価値について主張をしていたのだ。故に、苦がないのを「良い」と言うとき、私はシナリオAにおいて苦の存在よりも良いという意味で言っているのである。(45ページ)

「より良い」を「苦の存在よりは」という意味にとれば、それが無限に積み重なったとしても反直観的とは言えない。何もしないことが何かをした時よりも良いということは日常的にもよくあるからである。

 もうひとつ、完全な相対性のほうの議論である。以下のような思考実験(のようなもの)が述べられる。

ベネターは、現在の自分は生き続けることに対して強い利害関心を持つがゆえに、基本的には、反出生主義から自殺は推奨されないと述べる(出典)。現在の人類がただちに絶滅すべきでないことにも同様の議論があてはまる(出典)。しかし、なぜ現在の私や現在の人類の利害関心は、現在存在していない未来の自分Yや未来の人類にとっての「良さ」と「悪さ」に優先するのだろうか。そしてまた、現在の私の利害関心をYの利害関心に優先させてよいのなら、なぜ今、子どもをもとうとしているカップルの利害関心をXの利害関心に優先させてはならないのだろうか。つまり、この問題は、今、判断の主体であるカップルにとっての利害と、他者であるXにとっての利害については、Xの利害が優先されるのに対し、同じく判断の主体である私にとっての利害と、未来のYにとっての利害については、現在の私の利害が優先される、その違った扱いを正当化する根拠は何か、ということである。(130ページ)

(引用中のXとは生れてくる子どものことである。)これは誤解だと思われる。先述のような「存在すること」と「存在させること」の混同と似たような問題がここにもある。「存在しない」ことと「存在させないようにする」あるいは「存在し(てしまわ)なくなる」こと、つまり死ぬことも別なのである。『生まれてこないほうが良かった』では以下のように述べられている。

…存在してしまうことは常に害悪であるという見解は、死が存在し続けるよりも良いということや、自殺が(常に)望ましいということの有力な根拠を含んでいない。人生は、存在してしまわない方が良いと言えるほど悪いかもしれないが、存在し続けるのを止めた方が良いと言えるまでは悪くはないかもしれないのである。(邦訳220ページ)

存在しないことが存在することよりも良いことだとしても、存在しなくなることが良いこととは限らない。存在するものが存在しないものになるには存在しなくなることを必ず経由する必要がある。自殺すること、即ち意思を持って存在し続けるのを止めることの害悪はかなり大きいと私は見積っている。ベネター先生はここをやや曖昧に書いている感じなのだが、私はそう思う。また例えば、ある程度生きるうちに死ぬことの害悪は徐々に弱まっていき、自然な死を迎える頃にはかなり小さくなる、というようなことは十分考えられるのではないだろうか。未来の害悪のなさよりも現在の害悪の少なさを取っているために自殺をしない、という訳ではないと考えうるのである。生き続けることが大きな苦痛を伴う人、例えば重度の障害に苦しみ希望が見えない人や、これ以上生き続けても死の害が弱まることがない人、例えば物凄く長生きしてやることがない人、などは死が推奨されることとなる。しかし以上の議論はだいぶ恣意的である。もしかしたら死亡促進主義が正しいのかもしれない。いずれにせよ佐藤先生の議論は誤った前提に基いていると思う。

 人類全体に関しては、現在未来を合せた人類全体の苦痛の総量を考えた上で段階的絶滅をベネター先生は提案しているはずである。

 つまり、自殺に関しても絶滅に関しても、現在と未来を天秤にかけて現在を取っている訳ではない。それらは地続きであり、場合によっては選択も変りうる。それでも反出生主義や絶滅すべきという主張は変らないのである。

 そうだとしたらカップルが子どもを作ってはいけないという根拠は何か。ここには前回取り上げたメッツ先生によるベネター先生の議論構造への批判と同じものが含まれているようだ。カップルが子どもを産みたいと思い産んだら幸福が得られるということはよくある。そのカップルの幸せと存在させられてしまう子どもの害悪の回避とどちらを取るか。ベネター先生ならば子どもを自分たちの幸せの手段とするなと答えるだろう。メッツ先生はこれは不十分だと指摘している。それに対し私は、存在することの害悪がとても大きいことや生れてくる子どもの同意がないことなども根拠とすべきと考えたのだった。佐藤先生はこのように述べている。

 利害がもたらす理由がおよそ完全に相対的であるなら、どちらのケースでも、判断主体は自分自身の理由に基づいて行為すべきである。すなわち、現在の私は現在の私の利害関心に基づいて生き続けるべきであり、カップルも自分の利害関心に基づいて子どもを作るべきである。(130ページ)

そしてベネター先生の議論では相対的な良さ・悪さを取るはずだから、カップルは子どもを産むべきとなる。だが、その人にとって良いということからその人がそれをすべきということは導かれないだろう。そうだとすれば殺したい人がいる人は殺すべきということも容易に導かれてしまうので。よって他者危害の原則などを考慮したらどうかということになり、しかしそれだと未来の自分という他者の危害を考慮してただちに自殺すべきということも導かれると佐藤先生は論ずる。注で他者危害の原則と非対称性は相性が悪いとも書いている。だが、他者危害の原則のような一般的な原則よりももっと出生に即したものの方が良かろう。それが同意不在の議論である。これは他者危害よりも深刻だと私は考える。また端的に言って、未来の自分は他者ではないのではないか。ここにも同一性の形而上学についての(四次元主義なんかも含む)丁寧な議論が必要だったはずである。これも存在することと存在させることの混同から続いている。生き続けることは未来の自分という他者を存在させることとは違う。ここのところを丁寧に議論すると先程のような自殺回避論になるのである。

 

 私は基本的非対称性は依然として成り立っていると考えるが、佐藤先生の論の流れとしては続いて基本的非対称性が成り立っていないとしたら反出生主義は存在が常に悪いとは言えないために起こる問題を取り上げる。パーフィットの議論に基づいている。これも私にはおかしく思えた。いずれ来る幸福が不幸を上回る時代のために人類を存続させるべきだという。

 たとえば、人類が生きていく上での不幸をなくすのにあと一億年かかったとする。しかしそれでも、そこから先の数十億年は幸福だけを積み重ねていくことができる。したがって、現在、人生において不幸の方が幸福よりも多いとしても、私たちは人類を存続させて、不幸のない世界を生み出すことで、それらを必要な犠牲とみなすことができる。そうすると、私たちの義務は絶滅を受け入れることではなく、それが一億年に及ぶ努力を必要とするとしても、人類の歴史をつなぎ、不幸のない未来の世界を創り出すことになるだろう。(132ページ)

もちろん存在が常に害悪ならばこうはならない。しかし「必要な犠牲」という考え方はよいのだろうか。やや危険に思える。また先述の功利主義批判はここでも当てはまる。わざわざ幸福の総量を増やすために人を作る必要があるだろうか。最大の疑問は、本当にそのような未来が訪れるのか、ということである。ベネター先生はもちろん人生の質の悪さを論じているが、佐藤先生は『ファクトフルネス』を引いて人間にはポリアンナ効果と逆(?)で世界が悪いと思い込む性質もあること、世界は災害や疫病や飢餓に対してより強くなって良くなっていること、を述べている。私はこのベストセラーを読んだことがないかったのでちょっと見てみた。どうもベネター先生と逆のことを言っているわけではなさそうだった。ベネター先生は人が人生の質を高く見積もることを述べているが、『ファクトフルネス』は世界が実際以上に悪いと思い込む人が多い、ということを述べている。また、「世界はどんどん悪くなっている」という思い込みと「現に世界は悪い」という事実は両立するとも書いてあった。世界がどんどん良くなっているとして、現に悪いことに変りないと私は思う。また、本論考が出た後で新型コロナウィルスの流行が始まったのだが、やはりこの頃は楽観的だったのではなかろうか。戦争や気候変動もあるし。

 私が倫理学に疎いからかもしれないが、全体的におかしな形而上学に基いた議論だと感じた。いずれにせよ子どもを産むということの存在論的な意味はもう少し考えられて然るべきで、森岡先生の言うような生命の哲学が望まれると私も思う。

加藤秀一「「非同一性問題」再考」

 これはあまりわからなかった。著者の加藤先生は社会学者という肩書だがかなり現代哲学に精通しておられるようだ。なかなか難しくて私の知識不足でいまいち議論が掴めなかったように思う。私は『生まれてこないほうが良かった』を読んだときも非同一性問題についてはあんまりわからなかったので。

 しかし非同一性問題というのが『ドラゴンボール』のトランクスのタイム・トラベルと似ているということはわかった。

 数的同一性の起源説の話は少し知っていたしおもしろかったが特にコメントはない。

西條玲奈「「痛み」を感じるロボットを作ることの倫理的問題と反出生主義」

 これも斬新でおもしろい論考だった。西條先生は現代形而上学をベースに藝術哲学とロボット倫理をやっておられてなかなかユニークな哲学者だとお見受けする。

 痛みを感じることができるロボットというのは様々な局面で便利であるらしい。確かにそうかもしれない。

 ベネター先生の反出生主義は苦痛を感じる存在すべてに当てはまるので、痛みを感じるロボットを生み出すことにも当然反対することとなる。さらにいうと、例の四つの非対称性はロボットを想定したらよりクリアにすらなるという。私の感覚では、ロボットを作ることは子どもを作ることより不自然なのでより「わざわざ」作った感が出るためかなあと思う。おもしろい。

 痛みを感じるロボットを作ることは倫理的に問題がありそうだが、しかしロボットは所詮ロボットで生き物とは違うということも当然言いうるため、そういうロボットをどんどん作っていこうという流れもあるという。SF作品なんかでは例えばドラえもんのように情緒豊かなロボットがいるわけだが、なんだか急に怖くなってきた。

 さらに衝撃的な主張として、ベネター先生も認める通り人工物にとっても良さや悪さの議論は機能が正常に働くかという面からできるのだから、痛みだけが基準ではない反出生主義の適用もありうるという。つまり、もしかしたら家を建てたりすることも悪しき出生となるのかもしれない(さすがに西條先生はそこまでは書いていないが)。そんなバカな! とも思うのだが、反出生主義も十分そんなバカなという主張なのでなんとも言えない。

まとめ

 今回取り上げた四つの論考は私のような哲学徒にとっては本特集の白眉であったと思う。前半の二つはベネター先生に批判的だったが、私的にはベネター先生の論がより強化されたように思った。