↓これの続き!
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↓この本の論文を順番に読んでいくシリーズ!
7つ目はクリスティ・ドットソン「認識的暴力を突き止め、声を封殺する実践を突き止める」小草泰・木下頌子・飯塚理恵訳。
これも前回に続き言葉は難しいけれど議論は明快だった。
前回は認識的不正義の話だったが、今回は認識的暴力である。これも認識論的な実践において立場が上の者が下の者へ何か良くない事をしてしまうケースである。
ドットソン先生はまずホーンズビーという人の会話の哲学的分析を取り上げている。前に三木那由他先生の『会話を哲学する』という本の感想を書いた際、話し手でなく聞き手側の分析もあると良いんじゃないかと述べた。ここはそれが出てくる。コミュニケーションにおいては話し手と聞き手の双方に責務がある。話し手は聞き手に聞いてもらわなければ伝わらないという点で、なんなら聞き手より弱いとされる。
聞き手が悪性の無知によってこのコミュニケーションにおける責務を拒絶するのが認識的暴力である。意図的であれ非意図的であれ。更にドットソン先生はその実践を突き止める。実践とは原文ではpracticeで慣習という意味も含み、個別の例instanceと区別される。よって悪性の無知のうちでも安定したものが悪いとされる。
認識的暴力は、声の封殺(silencing)として現れる。それには二つの形があるという。一つが証言の無音化で、もう一つが証言の飲み込みである。
証言の無音化とは、証言する人が知識ある主体と見做されない事である。これは前回取り上げた認識的不正義の一種の証言的不正義と似ている。というか同じかもしれない。
ドットソン先生はもう一つの証言の飲み込みの方を多くのスペースを割いて論じている。これは、話し手が聞き手を自分の話をちゃんと聞いてくれないだろうなあと思ってちゃんと話せなくなるような事態である。つまり話し手の自制も聞き手の悪と見做している。最近よく聴かれるマイクロアグレッションというのもこれに当たるようだ。取り上げられている黒人女性の実例はなかなか胸が痛むものである。
などなど。前回のアンダーソン先生の論文では制度を変える事を提案していたが、この論文ではそこまで言っていない。取敢えず認識的暴力を「突き止める」というのが焦点である。という訳なのでこれを読んだ私が徳を高めていかねば。証言の飲み込みというのは私も気付かずに相手に強いているかもしれないので気をつけたい。なんか手抜きみたいな感想だがマジで。