曇りなき眼で見定めブログ

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いわゆる「カタカナ人名フェチ」問題について!!!

 タイトルに「いわゆる」とついてますが、言ってるのはたぶん私だけ…

 先日こんなトゥイートをしたら、私にしてはよく見られた。

この本は哲学入門というより「偉い白人男性の言ったこと・考えたこと入門」て感じですな。

ネオ高等遊民
一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書https://t.co/fmeTn2HYL8

— 鈴木盲点(The Blind Spot) (@cut_elimination) 2024年5月26日

続けてツリーではこう書いている。

しかし哲学に興味がある人というのは実は、哲学の議論を知りたいというよりは偉い白人男性の思想が知りたいという場合が多いので、まあこれでよいのでしょうな。

— 鈴木盲点(The Blind Spot) (@cut_elimination) 2024年5月26日

テツガク好きの人って哲学が好きなんじゃなくてカタカナ人名フェチなだけだったりしますからね。

— 鈴木盲点(The Blind Spot) (@cut_elimination) 2024年5月26日

 この本はちょっとしか見ていないので、それで文句みたいなことを書いてしまいネオ高等遊民さんには申し訳ない。

しかも文句のようにも受け取れるが、実は文句ではなく、この本はこれはこれで良い本なんじゃないかと思っている(ちょっと見ただけだけど)。ただ、本のタイトルに「哲学」とあるがそれは私の思う哲学とは違うかも、という話である。

 私の書いた「偉い白人男性の言ったこと・考えたこと入門」には二重の意図がある。すなわち、偉い人の言ったことや考えたことを学ぶのが果たして哲学なのか? というのと、その学ぶ対象の偉い人が白人男性に偏っていいのか、ということとである。前者は前にも書いたような、哲学にとって哲学史は必要か問題が念頭にある。

cut-elimination.hatenablog.com

後者の疑問はポリコレ的な面からというのもあるが、それに加え、果たして欧米の男性だけが偉大な哲学者なのか、なんらかの事情でそう思い込まされてるだけではないか、哲学者たるものそこも疑うべきではないか、というメタ哲学的な面からのものである。

 2つ目と3つ目のトゥイートは↑の哲学史不要論でも書いたことに関係する。実は哲学に興味がある世の中の人、そしてプロの哲学者を名乗る多くの人は、哲学に興味があるのではなく偉い白人男性に興味があるのではないか。もっと言うと、白人男性の「名前」に偏執的な興味があるのではないか。私は哲学の本、というか哲学者の書いた文章を読んでいるとよくそのように思う。「ヘーゲルはこう言っているがドゥルーズはこう言っている」「極めてプラトン的である」とかいう文章を見ると、これを書いている人は哲学をやっているというよりカタカナの人名を並べることに興奮しているのではないか、と思うのである。それくらい、無駄に思えるようなカタカナ人名の氾濫した文章は多い。こうしたカタカナ人名への執着を私は「カタカナ人名フェチ」と読んでいるわけである。このカタカナ人名フェチ問題についてつねづね考えていることもあり、↑のようなトゥイートをした。

 カタカナ人名だらけの文章を読むと、私はタモさんの言葉を思い出す。「笑っていいとも」の「テレフォンショッキング」のコーナーで、ゲストに向けて花が届くという慣習があったのをおぼえているだろうか。あれで一時期ユースケ・サンタマリアがよく花を送っていた。タモさんが花を紹介する際に、ユースケの花を見ると必ず「カタカナの名前は読めないですねえ」と言ってユースケの名前を読まずにスルーしていた。私は哲学者の書いたカタカナの人名がやたらと並ぶ文章を見るたび、このタモさん気持ちになるのである。