曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

『分析フェミニズム基本論文集』を読む・その4のための予習 江口聡「性的モノ化と性の倫理学」「性的モノ化再訪」

 ↓これのつづきです。

cut-elimination.hatenablog.com

↓この本の論文を順番に読んでいくシリーズ!

なのだけれど4つ目の論文ティモ・ユッテン「性的モノ化」を読む前に、同論文が批判しているマーサ・ヌスバウム先生の論文、を紹介する江口聡先生の「性的モノ化と性の倫理学」という論文を予習で読んだので今回はそれについて。ついでにその続編の「性的モノ化再訪」というのも読んだ。ユッテン先生の論文は「性的モノ化再訪」の少し前に発表されたようだがそこでは取り上げられていない。

 江口先生はブログやトゥイッターなんかで緩く啓発的な事を書いていて前から参考にしていた。女子大学で長年性の哲学を教えておられるのも凄い事である。ただしフェミニズムに対してはアンチ寄りの人なので、フェミニストの考えを直接学べる訳ではない事にも注意。まあ大丈夫だとは思うが、SNSのアンチフェミみたいな人たちに祭り上げられたりしないかなとちょっと心配な面もある。江口先生ご自身はトゥイッターのアカウントを毎年替えてフォロワーが増えないようにするとか面白い事をやっていて、そういうのも自分を見失わないようにする為の対策の一貫なのかもしれない。

 論文は江口先生のresearchmapからダウンロード出来る。

researchmap.jp

「性的モノ化と性の倫理学

 ポルノ批判というのは1970年代頃の第二波フェミニズムというので盛んだったらしい。そこでマッキノンとドウォーキンという人たちが性的モノ化を提唱した。「モノ化」というのはobjectificationで、客体化という意味でもある。人をモノのように扱う事で、それが性に関連すると性的モノ化と言われる。

 ラディカル・フェミニストであるマッキノン&ドォーキンは性的モノ化を非難の言葉として用いているが、ヌスバウムは良いモノ化もあると述べている*1ヌスバウム先生はラディカル・フェミニズムと同時にカントに依拠している。モノとして扱うというのはカントの避難する人を手段として扱うというのに似ている。ヌスバウム先生はモノ化を詳細に分析して7つの意味があるとする。そのうち手段化と関連する道具化、即ち人を道具のように扱う事が倫理的に悪いモノ化だと言うのである。しかし道具化にも実際の人間関係では良い使い方もある、とヌスバウム先生は考えているとのこと。問題なのは飽くまで一方的なモノ化である。

 江口先生はヌスバウム先生への批判としていくつか論点を挙げている。私がまず気になったのは、何故セックスは特別かというものである。江口先生によると、リバタリアン論者はセックスも同意に基いていればOKというのは他の行為と変らないとする。江口先生によるカントの読解では、カントは、セックスは相手の意志なしに挿入できるから特殊だと考えているらしい。しかしセックスというのはそんなに性器ばかりで行うもんかねと江口先生は反論している。そしてこんな事も書いている。

結婚前に共同で哲学的な著作をものにしようとしていたJ. S. ミルとハリエッ ト・テイラー、数々の名曲を共作し演奏したジョン・レノンポール・マッカートニー、数々 の名勝負をくりひろげたプロ将棋棋士の羽生と谷川らは、おそらくふつうの夫婦よりお互いを よく知っているだろうし、戦場で同じ隊に所属している二等兵たちはより親密かもしれない。

なのでセックスは特別なコミュニケーションではない、ということだろう。まあ彼らがふつうの夫婦以上かどうかはよく分らないが、範馬勇次郎も「闘いはSEX以上のコミュニケーションだ」と言っていたので強ち間違いでもないかもしれない。

 それとヌスバウム先生はゆきずりのセックスとか風俗でのセックスみたいな違いをよく知らない状態でのセックスも道徳的に問題ありと考えているようだ。江口先生は直観的には同意したいが現実の恋愛やセックスはそういう事をたいして問題にしていないとしている。私は直観的にも悪いものと思えないのである。

「性的モノ化再訪」

 前の論文から12年経ている。

 この論文はあまり哲学っぽくない。性的モノ化のようなフェミニズムの議論がどんどん実際の恋愛・性愛やポルノ文化からずれているのではないかというのを、実証研究を参考に指摘する面が大きい。これはかなり共感しながら読んでしまった。江口先生が述べているのは、性的モノ化は本当に女性のみの問題なのか、とか、モノ化はそんなに悪いものか、とか、モノ化が本当に行われているのか、とかになっている。社会学的な調査や研究を参照しているが、その正しさは私には分らない。相模ゴムの調査なんかも参照しているけれどもっと良い資料はないもんかなと思った。国が動け国が。

 次の話は面白かった。ポルノについて。

 しかし、代替可能な単なる性的なモノなのであれば、どれでも同じではないだろうか? なぜ彼らは延々ネットをサーフし時間を使うのだろうか? 答えは、おそらく、ポルノ的表現の対象にも、大きな質の違いがあるからである。彼らはよりよい対象、 モノを求めてサーフするのであり、その費やす時間の巨大さを考えれば、「モノとして貶めている」という表現が適切であるか疑問ではないだろうか。莫大な時間と金銭を消費する視聴者・愛好者は、むしろ、最新のポルノに登場する人物(特に女性)たちの性的な魅力に圧倒され搾取されているとさえ言えるかもしれない。

ポルノが性的搾取だというのはよく言われるが、搾取されているのはポルノ消費者ではないか、と。

 次も面白い。

ヌスバウムは最高レベルの女子テニス選手たちが、 その技量にもかかわらず男性ファンから性的にのみ見られることを、性的な存在に貶められていると考えた。しかし、単に女性であれば性的に魅力的であるのであれば、別段テニス選手である必要はないだろう。彼女たちは、最高級のテニス選手であるからこそ、ファンにとって性的に魅力的だと考えた方が筋が通っているのではないだろうか。

これは本当にそうだと思う。

 そして最後にはエロティック・キャピタルという話が取り上げられている。性的な魅力を利用するのはみんなやってるしなんなら良い事ではないか、とか。これは実態としてはそうだと思う。ただ私みたいなそういうのを持たず磨くのも怠ってきた人間は辛いなあと思う。

 性的モノ化はSNSでも盛んに言われる。AVとかセックス・ワークとか萌え絵とかが性的モノ化だと言って批判される。私は萌えアニメがたいして好きではないが、一応アニメ論客を目指しているので少しばかりは擁護したくなる。江口先生はそもそも性的モノ化が本当に問題か(性的モノ化はそんなに悪い事か、本当にそれは性的モノ化なのか)と言っているので、あまり性的モノ化を批判の棒とするのは疑わしいと思う事にしたい。しかし「ステレオタイプや偏見を強める」みたいな批判もあって、そういうのは江口先生的にはどうなんだろうなあと思った。

まとめて

 ぶっちゃけどちらの論文もまだ研究途上の感がある。モノグラフみたいなものを書いてくれないだろうか。世の学術出版の仕組みを全然知らない私なのでこんな事いっていいのかわかりませんが。

*1:ヌスバウム先生というのは存命の哲学者の中ではトップクラスの偉人で、倫理学が専門でない私も頻繁に名前を聴くような大倫理学者である。