曇りなき眼で見定めブログ

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またもや「てらまっと」氏への難癖(高木さんとか宇崎ちゃんとか長瀞さんとか「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」とか)#週末批評

 ↓何度かやっている「てらまっと」氏への難癖シリーズ。ネガティブなことばかり書いてごめんね😢

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 今回はてらまっと氏の「週末批評」というサイトからこの記事。

worldend-critic.com

これは本格的な論考ではなくあくまで試論、予備的なものらしいので、あまり真剣にはつっこまず、来るべき本論での改善を期待するものとしてひとつ…。

 以前に「こんなアニメ批評は嫌だ」と題してダメなアニメ批評の特徴を列挙した。

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今回のてらまっと氏の論考は「アニメ批評」と呼べるのかは微妙だが、政治っぽい話とか精神分析っぽい話とか文学っぽい話を持ち出すという点が当て嵌っている。あと5ちゃんねるのスレを参照するのにまとめサイトのリンクを貼るのは倫理的にどうかと思った。

 『からかい上手の高木さん』『宇崎ちゃんは遊びたい!』『イジらないで、長瀞さん』の三作品のカテゴリーとして「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」なる概念を提唱するのがてらまっと氏の今回の論考のテーマである*1。まず、三作品の特徴を以下のように挙げる。

これらのラブコメ作品に共通するのは、タイトルにヒロインの名字が入っていることだけではない。高木さんも宇崎ちゃんも長瀞さんも、ときに「S〔サディスト〕系女子」3 と形容されるほど、男性主人公に対して挑発的(あるいは攻撃的)なアプローチを仕掛けてくることに大きな特徴がある。ヒロインの可愛らしさのみならず、彼女たちの執拗な「からかい」や「イジり」や「ウザ絡み」を受けて狼狽したり赤面したりムキになったりする男性主人公の滑稽な振る舞いも、これらの作品の大きな見どころのひとつだ。

宇崎ちゃんに関しては若干怪しいが、おおむね正しいかと思う。ラブコメヌーヴェルヴァーグの定義は以下であるらしい。

 もちろん、ヒロインによるこうした過激なアプローチの背後には、恋愛に消極的な男性主人公に対するひそやかな──読者・視聴者にとってはあからさまな──好意がある。「好きの反対は無関心」とはよく言ったもので、彼女たちは男性主人公が嫌いだから攻撃的な言動を繰り返しているわけではない。そうではなく、逆に相手のことが大好きだからこそ、わざとからかったりイジったりウザ絡みしたりして気を引こうとするのだ。いわゆる「好きだからつい意地悪したくなっちゃう」というやつである。当初はヒロインに翻弄されるばかりだった男性主人公も、やがてまんまと彼女たちの術中にはまり、次第に相手のことを恋愛対象として意識するようになる。つまり「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」とは、ごく単純化して言えば、奥手な男性主人公がヒロインに “逆攻略” されていく物語なのだ。

この時点でかなり怪しい。この定義は高木さんにはよく当て嵌っているが、宇崎ちゃんや長瀞さんに関しては全然違うように思う。宇崎ちゃんや長瀞さんはそんなに計算高くない。

 そこから「母と子」という精神分析っぽい議論が始まる。しかもこれは後半江藤淳を持ち出すための露骨な伏線である。

 たしかに「ヌーヴェルヴァーグ」作品のヒロインは最初から男性主人公を慕っており、それゆえにしつこくからかったりイジったりウザ絡みしたりする。けれども、だからといって彼女たちは自分からすぐに愛を告白するわけではない。それでは物語が終わってしまうからだが、もっと本質的な理由として、男性主人公が自分の好意に気づき、自分のことを好きになり、いずれは彼らのほうから決断(告白)してくれることを彼女たちが暗に期待しているからだ。そういう意味では、彼女たちは “ありのまま” の男性主人公を愛しているわけでは決してない。そうではなく、彼らがいつの日か男らしく自分の手を引いてくれるはずだという将来性を見込んでいるからこそ、露骨に挑発的=教育的なアプローチを繰り返すのである。

てらまっと氏はこの特徴は高木さんと長瀞さんに顕著だと述べているが、実際宇崎ちゃんはそんな教育とかするキャラではなかったような。また長瀞さんは最初から主人公を慕っていた訳ではないと思う。

 それから『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』と宇野常寛先生の議論なんかが出てくる*2。それから宇野先生の本の元ネタの江藤淳なんかも出てくる。ここからがやたら詳細で、上の三作品の分析の雑さは何だったの? となる。どうも宇野常寛とか江藤淳を論じたいからラブコメにいろいろ抽象概念を乗っけてるだけでは? という気がしてくる。更に資本主義とか敗戦まで持ち出しているし、そういうのが好きなのだろう。てらまっと氏の批評の問題はこういうところにある。実際、こんなことを書いている。

ここでは私の準備不足のせいで具体的な描写の細部には立ち入れないが、このフォーマットは基本的に『長瀞さん』『宇崎ちゃん』にも共通している。

そこを準備して欲しかった。そもそも作品を論ずる気がないのかもしれないが。なのに「ヌーヴェルヴァーグ」とか概念をこねくり回すことはやりまくる。これは羅小黒戦記プロパガンダ論でもそうだった。政治とか文学が好きで、それとアニメを絡めたくて、結果アニメ作品の中身の分析が蔑ろになっているようなのだ。それで何故アニメ批評なんてやっているのだろう??? と思っちゃう。

 以下は疑問がある。

 もちろん『ビューティフル・ドリーマー』と「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」とのあいだには、無視すべきではない違いもある。両者のあいだに横たわる30年余りの歳月は、男性主人公の言動をほぼ180度変えてしまった。「男らしさ」は美徳から悪徳へと転落し、女の尻を追いかけるどころか、人間関係へのコミットそれ自体を躊躇するような傾向さえ生まれた。ヒロインによるアプローチがストレートな求愛から挑発へと転換したのも、時代の変化をあけすけに反映しているように見える。

うる星やつら』と同時期にるーみっくが連載していた『めぞん一刻』もヒロインの響子さんは素直になれなくて屈折したアプローチ(?)を繰り返していたぞ!

 ラブコメの歴史を調べて、それと比べて2010年代(後半)以降のラブコメがどう異質かをまず論じたらよかったのだと思う。てらまっと氏も本論が書かれるとしたらそうするつもりなのだろう。この記事では結論が先立っていてそれができていないというか、歴史とか個別作品を軽んじているように映ってしまった*3

 ↓なんか最後の方で筆が乗ったのかエモそうなことを書いているが、残念ながら意味がよくわからない。なんでこんな壮大な話になったんだっけか、と思った。

 やがてより良い社会が実現するのかどうか、私にはわからない。もっと悪くなる可能性のほうが高いのかもしれない。いずれにせよその道行きには、すでにおびただしい数の死体が積み重なっており、また刻一刻と積み上がっていく。腐臭に鼻をつまみ、顔をそむけてなんとか歩いてきた私も、いつの日か彼らの仲間に加わるだろう。そうやって死にゆく者たちの心を慰めるのは、私たちの生前にはついぞ到来しなかった輝ける共産主義社会でも、新たなるキリストでもない。そうではなく、童話の「マッチ売りの少女」がマッチの火のなかに幸福の幻影を垣間見て死んでいったように、いまやフィクションこそが、ユートピアへの途上で野垂れ死ぬ私たちの生の惨めさを贖いうるのである。たとえその慰めが、少女を死に至らしめる資本主義システムによって与えられた商品の輝きにすぎないとしても。

*1:私は宇崎ちゃんと長瀞さんは漫画をだいたい読んでいる。あんまり読み返していないから記憶は曖昧。高木さんは少ししか読んだことがない。アニメはどれも殆ど見ていない。私の知識も薄くてごめんね。

*2:てらまっと氏はこれを書いた時点で最近初めてビューティフル・ドリーマーを見たらしい。これには驚いた。ビューティフル・ドリーマーみたいな論じ甲斐のある作品を見ずにアニメ批評をやっていたなんて!

*3:ちなみにヌーヴェルヴァーグ映画作家たちは元は批評家という人が多く、みな歴史や個別の作品をリスペクトしていたと思う。