曇りなき眼で見定めブログ

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「週末批評」批判シリーズ:『傷物語』論編

 「てらまっと」なる人の『羅小黒戦記』論に対する反感から始まった一連の投稿。

cut-elimination.hatenablog.com

最近はてらまっと氏の運営している「週末批評」なる批評サイトの記事も読んでいて、やはり(悪い意味で)気になるものが多い。今回は『傷物語』を論じたこちらの記事をよんでチクチク書く。

worldend-critic.com

著者の「あにもに」なる人はかなりのシャフトファンらしく、シャフトを論じたりシャフトの情報を発信するブログをやっていて、これはなかなか勉強になる。

moni-mode.hatenablog.com

あにもに氏の「週末批評」における『傷物語』論なのだが、同サイトでアクセス数一位らしい。ふーん、と思った。

初出誌が気になる…

 あにもに氏の論考は、『アニクリ vol.7s:アニメにおける〈バグ〉の表象──特集 作画崩壊/幽霊の住処』(アニメクリティーク刊行会、2019)所収のものを転載しているらしい。この雑誌のこの号は、前に作画理論みたいなのを考えていた時に存在を知り、見たいと思ったが入手できなかったものである。信じられん特集名である。アニメが好きな人は「作画崩壊」などという悪意と愚かさに満ちた語を使わないと思っていたので。そうでもないのだろうか。それともこの特集を考えた人はそれが分っていて皮肉で名付けたのか。それともアニメが好きでないのか。

 まあいずれにせよ、「良い作画」が殆ど論じられていないこのアニメ論壇で作画崩壊を論じようとするのは歪んでいると思う。

テツガクじみている

 で、あにもに氏の論の方へ行く。

 序章で「契機」とか「自己言及」とか「位相」とか「脱構築」とか妙にテツガクじみた言葉が並んでいて気になった。なぜ気になったのかというと、私もいちおう哲学研究室で論理学をやっている身なので。哲学用語が正しい意味で使われているかはやはりチェックせねばという本能は働く。

 「契機」というのは一般的には「きっかけ」という意味で使われるだろうか。あにもに氏もこの意味で使っているようだ。しかし哲学では違う意味になる術語かと思うので、少しややこしかった。「Aが存在するうえでBが不可欠であるとき、BをAの契機という」みたいな定義ではないか。違ったらごめんなさい。まああにもに氏が「きっかけ」というのを格好良く熟語で書きたかっただけとかならば問題ない。深読みしたこちらが悪い。

 「自己言及」は論理学とも深く関わるのでかなり気になる。使われている箇所を引用する。

 2016年に全3部作として劇場公開された映画『傷物語』は、アニメーションについてのアニメーションである。あるいはより厳密に言うならば、傷物語』は、アニメーションが含有するある種の政治性を浮かび上がらせる契機を内部に有している、自己言及的なアニメーションである。

「アニメーションについてのアニメーション」は自己言及っぽいが、「ついて」の意味が曖昧なので自己言及とも言い切れないかと思う。「AについてのB」が「BはAを項とする文」とかなら確実に自己言及だが、「Bという語を含む文の真理値はAという語を含むある他の文の真理値で決まる」とかだったら自己言及ではない。その次の文で「アニメーションについてのアニメーション」を詳しく言い換えているが、何かの契機(きっかけ)を内部に有しているだけならば自己言及ではないのではないか。段落全体が曖昧に思える。

 あと「位相」という言葉は辞書を引いてみて頂きたい。これはtopologyの訳語なのかphaseの訳語なのかaspectの訳語なのかよく分らない、実は実に*1曖昧な語なのである。

 「脱構築」はまあいいでしょう。

 細かくてすみませんね…。

『アニメ・マシーン』

 トーマス・ラマール『アニメ・マシーン』という本が引用されている。この本は図書館で見かけて面白そうだなと思っていた。分厚いので読める気がしなかったが。あにもに氏は全部読んだのだろうか。だとしたら偉い。

 コンポジティングとかレイヤーとかいう言葉で作品を分析しているのはなかなか興味深い。

尾石監督か新房総監督か

 尾石監督の意図や演出技法を論じている箇所が幾つかある。本作の監督は尾石達也氏だが、しかし総監督として新房昭之氏もいる。どうして尾石監督の作品みたいに論じているのだろう? おそらくあにもに氏は尾石監督による絵コンテとかを参照していて、取り上げている演出が尾石監督の意図によるものだと分っているのだろう。だとしたら、私を含めたぶん多くの読者はそんなことは知らないので、その辺は文中で説明して欲しかったなあ、と思った。

衒学的

傷物語』を鑑賞した多くの観客が、大島映画を想起したことは間違いないだろう。

黒地に白抜きで「vampire」「tragédie」「histoire」とフランス語が3単語ほど映し出された後に「白黑反轉」の字幕が現れ、画面は文字通り反転する。観客の誰もがゴダールの映画を想起せざるを得ない、この冒頭を構成するシークエンスは『傷物語』のすべてを要約するにふさわしい20秒間である。

私は大島渚ゴダールも想起しなかった…。すいませんね映画に疎くて*2! しかし言わせてもらうと、こういう「誰もが想起せざるを得ない」とかいうレトリックは、蓮實重彦先生みたいな大御所がやるから面白いのであって、知らない人にやられてもな〜とは思う。

 なんだかこういう衒学的な表現が多い。

 丹下健三の建築がたくさん出てくるというのは普通に勉強になった。

表象、喚起

 日本的なイメージがよく出てくるという記述的な分析はまあそうかなと思う。そこに余り明確な意味を求めすぎない方がよいと思うが、これは後述。

 そうした分析の中で出てくる次のような「表象」が気になる。

ここで描かれる富士山のイメージは、これ以上ないほど〈日本的なるもの〉を表象するものとしてナショナリズムと結びつく危険性を内包しており、たんなる言葉遊びでは片付けられない問題が生じているのである。

私は「表象」という語は意味がそもそも曖昧だと思っているので自分では使わない。ここでは何を意味しているだろうか。富士山は日本の象徴だとは思うが、「〈日本的なるもの〉を表象する」とはどういう意味か。富士山を見ると日本を思い出す、という事だろうか。しかし必ずしもそんなことはなかろう。私は『傷物語』を見ていて富士山が出た時「ああ富士山だな〜」ぐらいにしか思わなかった。いわんやナショナリズムなんて高揚しなかった。

 次の「喚起」にもこれと似た問題がある。

富士山がナショナリズムを喚起するものであるのは言うまでもないが、丹下の案もこれを正面から利用したものであった。

べつに富士山を見てもナショナリズムなんて喚起されない。誰にとっての喚起なのかが曖昧だろう。愛国的なポスターとかに富士山がよく登場するという経験的事実から、富士山は愛国を「表象」し愛国心を「喚起」すると短絡してしまっているように思う。

 どちらもやはり曖昧である。

出た! 敗戦!

 本作は「価値の反転」が描かれているという分析から以下のように論じられる。

 劇中に登場する〈日本的なるもの〉のモチーフが、こうした価値の反転と結びついていることは明らかだろう。これはかつて日本が敗戦を経て経験することになった価値観の転換を彷彿とさせるが、そのことは『傷物語』において描かれる最終的な結末と決して無関係ではない。

暦の価値観が揺さぶられるということからどうして戦後日本論に飛んだのかは解らない。アニメ批評って敗戦と戦後を論じるのが好きだな〜。いまちょうど宇野常寛先生の本を読んでいて、そこでも敗戦敗戦と連呼されている。そんなに戦後のあらゆる文化が敗戦と繋がっているのだろうか。そんな訳ないと思うのだが。日本史を考えた結果敗戦と結びつくのではなく、むしろ日本現代史の複雑な知識がないからなんでも短絡的に敗戦と結びつけてしまうのでは、という気がする。

 あにもに氏っておいくつだろう。切通理作先生とかが書いていた「ウルトラマン日米安保アメリカを象徴していて〜」みたいな議論を読んで信じた口だろうか。若い人でもまだそんな人がいるのかな *3

 また、「喚起」と似て「彷彿とさせる」も曖昧である。

「批評」となると身構えてしまう現象

 シャフトに詳しくアニメにも造詣が深いっぽい人が、どうして「批評」となると政治とか「なんか利口そう」なテーマに走ってしまうのだろう。アニメや作品の内在的価値なんて信じていないのだろうか。アニメを論ずるだけでは批評にならないとタカを括っているのだろうか。アニメには批評が論ずるほどの価値は無いと思っているのか(そんなわきゃないか)。

〇〇的、〇〇性

 本論中には「〇〇的」「〇〇性」という後が頻出する。こういう語は曖昧になる危険が大きい。きちんと定義しなくてもそれらしい語が作れてしまうので。以下の引用を見よ。

実際、阿良々木はキスショットの血を限界間際まで吸うことによって、人間性と吸血鬼性の両方を備える両義的な存在になるのであり、それはまさしく分離力の抑制と結合力の促進を目指したものであると言えよう。このような意味で「民主主義的身体」とも形容しうる阿良々木の継ぎ接ぎの身体性は、内部に刻み込まれた癒えない傷の痛みによって贖われるのである。

 「人間」でも「吸血鬼」でもない中途半端な存在になる阿良々木は、敗戦後に民主主義を導入され、戦前と戦後という異なるふたつの価値観に引き裂かれる日本人の姿と重なり合う。これはキスショットとの最終決戦の舞台が旧国立競技場で、オリンピックを模した戦闘が繰り広げられることからも明らかだろう[図6]。日本人の阿良々木と西洋人のキスショットが戦いを繰り広げるこの場面において、東京オリンピックのラジオ実況中継が流れるシークエンスなどは、のちに民主主義的身体の獲得をめぐって葛藤することになる阿良々木を象徴しているかのようである。

「吸血鬼性」って分析形而上学に出てきそうな語だがそれはさておき*4。「民主主義的身体」というのは「形容」として出てきたが、後の議論では本当に戦後日本の民主主義と何かしらの関係があるかのように論じられている。これは飛躍があるだろう。そしてその飛躍は「的」が曖昧であるせいで別々の概念が繋がってしまい生じているように見える。

全体の論理展開について

 実のところ、全体的にあにもに氏の主張がよく解らなかった。本作は両義的な人物を両義的な技法で描いている、日本の戦後民主主義も両義的である、民主主義と言ったら政治である、だから本作も政治である、みたいなかんじだろうか。これまで指摘したような曖昧さと飛躍があるので成功しているとは言い難いが。作品から民主主義というテーマを取り出したのはあにもに氏である。少なくとも私は『傷物語』を見てそんなテーマを感じなかった。なのでそこを指摘するだけでもかなり詳細な議論が要るだろう。「的」で誤魔化してはいかん。

 しかしそもそも、作品を理論的に読解するのは実践的に難しいし規範的にも良くないと私は思う。多くを見落して、作品を矮小化してしまう可能性があるので。批評なんて作品から読み取れるささやかな事実を指摘して価値付けするくらいで良いのではないかと思うおいらです。

さいごに

 何度も「曖昧だ」と書いてきたが、本論の冒頭では大江健三郎の「あいまいな日本の私」が引用されている。あにもに氏は故意に曖昧な文章を書いているのだろうか…。

 しかしあにもに氏はちゃんと作品の具体的シーンを取り上げて視覚的表現も論じているので、てらまっと氏とかよりはかなり好感が持てた。↓記事も参照。

cut-elimination.hatenablog.com

*1:西尾維新っぽい。

*2: 私は大島映画は『戦メリ』しか見ていない。ゴダールはそこそこ見ているけどそんなに繰り返し見て思い入れがあるとかではないので想起しなかった。

*3:こう書くと私がおっちゃんみたいだが、私はたまたま実家の本棚に『怪獣学入門』という本があって読んだだけで、リアルタイム世代ではないよ。

*4:衒学的でゴメン。