曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

宇野常寛『母性のディストピア』という(あまり良くない)本を精読する その2

 ↓のつづき。

cut-elimination.hatenablog.com

宇野常寛『母性のディストピア接触篇』(ハヤカワ文庫JA)

命題

 宇野先生は「命題」という言葉の意味を分っていない気がする。「命題」とは、「真または偽であるような主張」の事である。真偽が問えないような表現は命題ではない。例えば「アトムの命題」として「成長しない身体=(マンガ/アニメの)キャラクターを用いて成熟(老い、死)を描くこと」(70ページ)とあり(これは大塚英志先生が提唱したものらしい)、「ゴジラの命題」として「虚構を通じてしか捉えることのできない現実(具体的には、戦争)を描くこと」(82-83ページ)とある。これらは命題ではない。「使命」とか「課題」とか言うべきもので、宇野先生はそれらと命題とを混同していると思う。

 まあこれは私が論理学徒だから殊更に気になったのだろう。

 アトムの命題だが、成熟しないことと成熟とが同居してるのが戦後日本そのものと宇野先生は論じたいのだろうが、考えすぎだと思う。前章で指摘した過度な図式化はやはり健在である。

過度な図式化、12歳の少年

 マッカーサーが日本の事を「12歳の少年」と評したというエピソードが出てくる。そして広島に落とされた原爆の名前が「リトルボーイ」だった事とそれを作品のタイトルにした村上隆の事も。で、これらがなんとなくで接続される。戦後の日本が少年のようなものだと言うのは譬喩として適当かと思う。しかし原爆の名前がリトルボーイというのは試作品みたない意味であって偶然だろう。そして村上隆が作品にそう名付けたからどうしたというのか。なんか物凄い象徴的な事として「12歳の少年/リトルボーイ」というフレーズが使われるのだが、マッカーサーの印象とたまたま付いた原爆の名前と村上隆の作品のタイトル以上の意味が感じられない。

 とにかく戦後すぐの日本は未成熟な社会というのはそうだろう。しかし日本はずっと成熟できていないと言うのがこの本の主張なので、戦後「すぐ」に限った事ではない。

 これらを押さえた上で次の引用を見てほしい。

月光仮面』(1958〜59)の時代、国産ヒーローは生身の身体のまま悪を討っていた。しかし、それは戦後の文化空間においては許されない行為だった。なぜならばそれはアイロニーを経由しない行為であり、喪失の空洞を自覚しない行為であり、そして視聴者である男子児童のナルシシズム(文学)と正義の暴力を行使すること(政治)との間にある歪みを黙殺する行為だったからだ。その結果、国産テレビヒーローたちはウルトラマン仮面ライダーなどの大衆化の過程で、他の何かに「変身」することで初めてその力を行使することが許されるようになっていった。(71−72ページ)

これは本気でそう思っているのだろうか。「行使することが許される」って誰が許したり許さなかったりするのだろう。敗戦とか戦後の政治状況とかが本当にヒーローの変身するしないを規定したと思っているのだろうか。そんな訳ないと思うのだが。

 宇野先生の中では「日本」という一個の人格があって、戦後に思春期を迎えて、みたいな事になっているのだろうか。そんな訳はない。日本には何千万という住人がいて、いろんな人がいろんなものを見ている。

スポ根などが忘れられているような

 アトムの時代、特撮の時代、(宇宙ものロボット)アニメの時代、みたいな風に時代を区切っているが、1970年前後くらいには梶原一騎原作のものや『アタックNo. 1』といったスポ根ものがアニメ化されて立て続けにヒットした。これが論じられていない。宇野先生の単線的な史観には都合が悪かったのだろうか。星一徹とか古い父権的な人なのでむしろ論じがいがありそうだが。

 それと『ヤマト』の裏番組だった『アルプスの少女ハイジ』以降の名作劇場は高視聴率だった。見た人の数で言えば『ヤマト』や『ガンダム』よりも多かったと思う。こういうのは考察の外なのだろうか。

過度な図式化、政治と文学

 先の引用で「視聴者である男子児童のナルシシズム(文学)と正義の暴力を行使すること(政治)」とあった。やはり「政治と文学」の定義とか適用範囲が曖昧だと思う。「身体(文学レベル)と戦争(政治レベル)」というのもあった(78ページ)。図式的すぎるだろう。

 また別だが、「去勢された人間(日本)がその人間性を取り戻すために、人間(父)になるためにこそ…」(76ページ)という一節など図式化し過ぎて混乱の極みだと思う。

過度な図式化、オウム

 オウムとエヴァがなんらかの時代の空気を反映しているというのはあると思う。

 宇野先生のオウム論は図式的すぎる。『ヤマト』『ガンダム』など架空年代記のブームとオカルトブームが並行していていたとしているが、これらは別物だと思う。初期のオウムは架空年代記もののパロディだったとしているが、オウムの前身ができたのは1984年で、ヤマト・ガンダムブームが終った頃である。少しズレている。『装甲騎兵ボトムズ』とかを挙げるとよいかも。『銀河英雄伝説』や『グイン・サーガ』も挙げられているが、これらは長寿作品なのでいつが前世紀だったか私にはわからない。

 エヴァのストーリーの要約とかもなんか違う。宇野先生は「このアニメはこういう時代なのでこういうテーマだ!」とか図式的に見過ぎだと思う。

予言の失敗

 アニメとか虚構はつまらない、ライブアイドルこそおもしろい、などと述べられている。しかし本書の文庫版が出た前後あたりから、アイドルブームはピークを過ぎた感があり、アニメは社会現象的な作品を連発し出した。つまり宇野先生の読みは外れた。しかし外れただけよいと思う。ちゃんと反証可能性があったという事なので。

まとめ

 本章はよく解らなかった。なんか本記事も雑になってしまった。上手く書けなかった。すみません。

 『うる星やつら』についても少し書いて、気になる点もあったが、これは押井守の章で詳しく扱われるだろうからそこでまた。