曇りなき眼で見定めブログ

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宇野常寛『母性のディストピア』という(あまり良くない)本を精読する その1

 宇野常寛『母性のディストピア接触篇』ハヤカワ文庫JA

 「アニメ批評」批判シリーズ。

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近年のやたら政治がかったアニメ批評の元凶は宇野常寛なのでは? と思い、宇野先生の『母性のディストピア』というアニメ論を読みはじめた。で、予想通りあまり良くない本である。まだ第1部までしか読んでいなくてアニメ論も出てきていないが。これから少しずつ読んでメモを残していく。

「アニメ」か「アニメーション」か

 本書における「アニメ」と「アニメーション」という語の使い分けの基準が今のところ判らない。なんとなくで使い分けているのだろうか。格好をつけたい時は「アニメーション」とか。

 細かい問題と思われるかもしれないが、私の中では「アニメ」と「アニメーション」には厳然たる違いがある。これはその内どこかで書く。本書が扱っているのは基本的に全て「アニメ」である。

アニメの話をしたってべつによかろう

 「序にかえて」がなんかイタくておもしろい。

 2017年に出た本だが、この時代にアニメを語る意味などあるのか!? もっと社会を論ずるべきでは!? いや、あえてアニメを論ずる! というような事が述べられている。べつに社会の変動期であってもアニメを論じたってよいと思うので、意味の分らない議論である。またこの手の批評家の人は常に「現代は転換期だ!」みたいに論ずるが、世の中というのは少しずつ変っていくもである。コロナ禍とかを見た後だとこの時代なんて大した転換期でもなかったのではないか。

 だが私は、政治とかを離れてアニメを論ずる本が不足していると思っているので、この姿勢は応援したくなった。しかし、宇野先生が何故あえてアニメを論じるのかというと、アニメを通して現代の問題が分るかららしい。やっぱりアニメよりも政治や社会に興味があるんかい! とガックリ。

過度に図式的1:「政治と文学」の意味がよく分らない

 そして1章ではアニメ論はまだ出てこず、ガッツリと「戦後」論になる。江藤淳とか三島由紀夫が参照される。批評家って本当にそういうのが好きだな…と思った。アニメなんか本当は好きじゃないのだろうなあ。

 ここで三島の表現を借りて「政治と文学」の関係が論じられている。「政治」は公的なこと、「文学」は私的なことを指すらしい。この用語には疑問がある。まず「公的なもの」「私的なもの」が曖昧である。これらはくっきりと分けられるものではないし、過度に図式的であまり役に立ちそうにない定義である。実際、これらが何を指すのか混乱している。文字通り政治と文学を指しているっぽい箇所もあるが、文学は私的なものばかりではない。「生活と芸術」と言い直されている箇所もある(32ページ)。「政治的(表面的)」「文学的(実質的)」と書いてある箇所もある(34ページ)。

 そういう訳なので、章を通して議論が宙に浮いている感じがする。

過度に図式的2:「父」と「母」

 前節で述べた「過度に図式的」というのは本章全体に言える。キータームである「父」と「母」というのも図式的でよく解らない。国家とか治者が父のようなものと述べられたり、妻が母だと述べられたり、混乱している。

 このため、江藤のDVが国家の話と繋げられたり、村上春樹先生の小説が「「父」を演じる」というよく判らない表現で表されたりする。

 宇野先生は一度落ち着いて用語と論理を整理すべきだと思う。

過度に図式的3:戦後史

 日本の「戦後」なるものを大雑把に論じすぎではなかろうか。あたかも戦後日本史には「サンフランシスコ講和条約」「三島事件」「連合赤軍事件」「オウム事件」「東日本大震災」しか起きなかったかのようである。歴史というのはもっと色々な要因が絡まり合って進むものである。宇野先生は自分の知っている事で何もかもを把握しようとしすぎだと思う。

肝心の「母性のディストピア」の定義が理解できなかった…

 父と母が解らないためにタイトルにもなっている「母性のディストピア」なる概念もよく解らなくなっている。一応定義らしき所を引用する。

 世界と個人、公と私、政治と文学を結ぶもの。いや、近代日本という未完のプロジェクトにおいては常に結ばれたふりをすることでしかなかったのだが、このいびつな演技のために彼らが必要としたのは「母」的な存在だったのだ。

 妻を「母」と錯誤するこの母子相姦的な想像力は、配偶者という社会的な契約を、母子関係という非社会的(家族的)に閉じた関係性と同致することで成り立っている。

 本書では、この母子相姦的な構造を「母性のディストピア」と表現したい。(45ページ)

「同致」って初めて見た言葉だが、「一致(させる)」という意味っぽい。

 読んでも何が母子相姦的なのかはよく判らない。江藤の議論とDV、そして村上の小説にこれは現れているらしい。まあ後の章でアニメに即して実態が判ってくるのだろう。それを待つ。ただ本章の後半ではインターネットが母みたいなものだということになり、やはり図式的すぎると思った。

熱くなりすぎ

 最後の方は、インターネットやSNSのせいで日本の言論はおかしくなっている、というありがちな議論となる。しかし宇野先生の主観や印象以上のデータは挙げられていない。これだけ図式思考に囚われている宇野先生のことなので、宇野先生のタイムラインが歪んでいるのでは、とも思える。私がトゥイッターをやっている感じではそれほど世の中は悪くないのである。

 どうも現代の日本やインターネットが嫌いなあまり熱くなりすぎている感じがする。

まとめ

 少数のデータで世の中を分った気になりすぎだし、自身の論に自信を持ちすぎ・執着しすぎでないかな〜と思った。

 文学とか批評とかばかり読んでいないで、社会学の論文とか読んだ方がいいのでは、というのも思った。