↓これの続き。ずいぶん久しぶりだ…。
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けど漸くちゃんと読み終えた。
宇野常寛『母性のディストピア Ⅱ発動篇』(ハヤカワ文庫JA)。
最終第6部と巻末付録を取り上げます。
今回も過度な図式化が豊富
2016年にアニメや特撮の傑作・ヒット作が多く出た事をなんかの啓示みたいに思っていそうだ。「2016年問題」とか言って図式化している。
日常系を「終わりなき日常」とかいっていっしょくたにするのもやめてほしい。
『この世界の片隅に』を『パトレイバー2』と等置するのもどうか。これら二作の戦争へのスタンスの相違を論ずるのはよいが、アニメとしてはあまりに質が違うことを無視するのは良くない。無視するならアニメに擦り寄るのをやめて「私はアニメとしての質には興味ありません」と宣言してほしい。
ポケモンGo
宇野先生はポケモンGoが好きらしい。こういうARゲームが世を席巻して映画・映像は衰退していくと予想している。しかし残念ながら2023年現在そうはなっていない。「〇〇の時代」みたいに過度に図式化して現実を見るから予測を外したんじゃなかろうか。
アスカやカヨコは流石に母ではないだろう
なんかもう女キャラでありさえすれば「母性」なのか、という感じになっている。宮台真司の論を引いているのだけれど、『エヴァ』のアスカとか『シン・ゴジラ』の石原さとみ演ずるカヨコを母的なキャラクターとしている(272ページあたりから)。アスカは母性を嫌悪するキャラだったし、カヨコのどこに母要素があるのか?
あと母子が出てくるだけで「近親相姦的」とか書くのも意味わからんし気味悪いからやめていただきたいなあ。
吉本隆明の大昔の本を真に受けるな!
結論に向けてだんだんとアニメ論が減って現代社会への提言が増えていく本書。
6部後半は抽象的な議論になってもはや政治論なのかどうかもよくわからなくなっていく。国家とかを論ずるならもっと経済とかデータを見た方がよいのに文藝批評ばかり参照していてややアホらしい。
吉本隆明の『共同幻想論』をまともに論じている。流石に半世紀以上前の批評家が書いた本を学術書みたいに扱うのはどうか。まあ私もその後吉本がどう批判されたのか知らないし『共同幻想論』も読んでいないのだけど…
結局
で、6部の最後で結論のようにこんな事を書いている。
本書の冒頭で私は述べた。もはやこの国の現実に語るべきことは一つもない、と。
この国の卑しく、貧しい現実を語ることよりも、虚構について、アニメについて、サブカルチャーについて語ることのほうが意味のある行為なのだと。安倍晋三やSEALDsについて語ることよりも、ナウシカやシャアについて語ることのほうが価値がある、と。
ならば、私たちのこの現実の側を更新するしかないのだ。戦後アニメーションの遺した想像力を用いて、この現実そのものを語るに値するものに、接続するに値するものに変えるしかないのだ。
私たちはこの貧しく、卑しい現実に接続し、更新する他ない。それもバケツに空いた穴をふさぐような想像力のいらない仕事(最適化)ではなく、新しい井戸を掘るような想像力の必要な仕事(再構築)として、私たちはこの国の「失われた20年」に失われた可能性を今こそ回復すべきなのだ。これは想像力の必要な仕事だ。(300-301ページ)
なーーーーーんだ。やっぱりこれはそういう本なのか。アニメ論だと思ったから喜んで読み始めたのに、アニメをネタにして現実への提言がしたかったのであるこの人は(提言したい事で頭がいっぱいだったからアニメ論部分も酷いものになってしまったのだろう)。そんなもんに私は興味ない。アニメはアニメで見たいし、現実は現実で、言われなくても自分なりにちゃんと考えているよ私は。読んで損した*1。
富野監督との対談が噛み合っていない
巻末に富野由悠季監督との対談が載っている。これがなかなか酷かった。現場の雰囲気はわからないが、まあ噛み合っていない。宇野先生が自身のアニメ観、富野観を押し付けているだけに見えた。しかし富野監督に対してこれだけ我を出せるのは凄い事だと思う。
宇野先生は明らかに若い頃に見たアニメからアップデートできていないが、遥かに歳上の富野監督は次回作がいかに面白いか強調している。天才は衰えないのだ。
考えること
巻末に宇野先生へのインタビューも載っている。宇野先生はいま「遅いインターネット」というサイトを運営しているが、インタビューでは当時のその構想が語られている。宇野先生は「考える」ことが大事だと思っていて、「考える」という態度をネットに広めたいらしい(最近のnoteでも考えない人びとに対してイラついてブチ切れている↓)。
まあよい事だとは思うが、しかし本書を読んだ感じだと、宇野先生は考えるにしても知識や技術が足りていないと思う。失礼ながら「下手の考え休むに似たり」状態である。考えることも大事だけど、同じくらい調べたり知ったり検証したりする事も大事なのである。あと自分の書いたものを読んでもらって批判を頂いて再度検討するみたいな修行とか*2。
本書の問題点
本書全体の問題点を箇条書きしておく。
- 主観ばかりで証拠やデータに乏しい。その主観は宇野先生のごく狭い観測範囲についての印象でしかないように思える。そのことに気付いていないしそういう懸念がある事にも気付いていない感じ。
- 「命題」など言葉遣いがおかしいところあり。
- 吉本隆明とか宮台真司みたいな俗流文化人の言う事を真に受けてしまう知的嗅覚のなさ。
- 過度な図式化。「〇〇的」とか「〇〇性」という言葉で雑に整理しすぎである。「○年代はこう」みたいな議論も多い。ホンマかいとなる。
- なんかわからないが日本やSNSに対してイライラしている。知的な本を目指すのなら冷静に書いたらどうか。
- 個人的には、アニメを語るフリをしてそれをダシに政治を語る様が、アニメへのリスペクトを欠いているように見えて残念だった。
ヒヒョウくんへ
「終わりなき日常」とか「データベース」とか言ってアニメやゲームを政治と絡めて論じたがる人を私は「ヒヒョウくん」と呼ぶ事にする。私はこれまで以下のようにヒヒョウ君を批判してきた。
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初めて宇野先生の本をちゃんと読んでみて、宇野先生がヒヒョウくんたちにお墨付きを与えてしまっている事がよくわかった。彼らの作品の軽視、実証の軽視、鼻につく文体は宇野先生の悪影響が大きいのだろうな。
宮台真司の「終わりなき日常」本も読んでみようかな。