↓予告した通り宇野常寛『ゼロ年代の想像力』をネチネチと批判していきます。
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テーマを決めて何回かに分けて批判していくことにする。初回は「ポストモダン状況の徹底」なる不明な概念について。
この本を読んだ人で同じように思った人は多いんじゃなかろうか。本書の全体のテーマは「ポストモダン状況の徹底によってサヴァイヴ系・バトルロワイヤル系・決断主義の作品が栄える」という大理論である。まずその「ポストモダン状況の徹底」あるいは「ポストモダン状況の進行」という何度も繰り返される文句が意味不明なのである。
16ページから引用する。
世界はここ数十年で、随分と複雑になった。
国内における七○年代以降の展開は、概ね消費社会の浸透とそれに伴う社会の流動性上昇の過程として捉えられる。これらが進行すると、何に価値があるのかを規定してくれる「大きな物語」が機能しなくなる(ポストモダン状況の進行)。「大きな物語」とは、伝統や戦後民主主義といった国民国家的なイデオロギー、あるいはマルクス主義のように歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系のことを指す。言うなればこの四十年、この国の社会は「モノはあっても物語(生きる意味、信じられる価値)のない世界」が進行する過程であったとも言える。
随分と雑な議論に思える。消費社会の浸透と社会の流動性上昇というのはまあ起きているかもしれないが、もうちょっと具体性が欲しいところ(この後で郊外化みたいな話はあるが)。「大きな物語の終り」というのはヒヒョウの世界では常識みたいになっているが果して本当にそんなことは起きたのだろうか。「モノはあっても物語はない」という感覚は本当に増したのだろうか。この辺りの考察は本書では一切なく進んでいく。参考文献とかも特になかったと思う(郊外論を除き)。ゼロ年代ヒヒョウを読むうえでまず信じなければいけないドグマみたいなもんだろう。
とはいえ私は宇野先生に比べて社会学や歴史に詳しいわけでもないので具体的な反証はできない。というかなんとなくポストモダン状況というのは進行している気はする。しかし、それは「ポストモダン」つまりモダニズム後の話なのかというのは気になる。夏目漱石もこんなようなことを言っていそうである。いつの時代もヒヒョウ家というか言論ビジネスマンが言う「現代は転換期だ! 古い常識は通用しない!」的言説にすぎない気はする。宇野先生によるとポストモダン状況は95年の大震災とオウム事件、01年の911テロと小泉政権誕生によってさらに徹底され、時代は新しい段階に入ったという(本書中何度も述べている)。ちょっと関暁夫っぽい。ヒヒョウ家というのは「大きな物語は終って新しい時代に入った」という大きな物語が好きな生き物なのだろう。
もう一つ問題なのは、ポストモダン状況が徹底して、だからどうなんだという点。ポストモダン状況なるものがいかにしてサブカルチャーに影響するか、その機序がわからないのである。なので本書のゼロ年代文化論はどれも、本当に社会の変化の結果と言えるのかいまいちわからない。
というわけでまとめると。
- ポストモダン状況の徹底が何かわからず、それが本当に起きているのかもわからない。
- 起きていたとしてそれがポストモダンと呼べるようなその時代特有の現象かわからない。
- 起きていてそれがその時代特有のものとして、それがいかに文化に影響を与えると言えるのかわからない。
とりあえず今回はこのくらいで。
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