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これまで総論的なことばかりだったので今回は具体的な作品論に踏み込む。
前に『母性のディストピア』を読んだときにも思ったが、宇野先生はとにかく図式的に物事を考える。○年にポストモダン状況が進行して〜というのもそうだし、個々の作品の解釈も過度に図式的である。私はアニメなんかはもっと豊かなものであってそう簡単に図式に収まるものではないと思っている。
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例として『ゼロ想』の『エヴァ』論を取り上げる。本書中で何度か同じような主張が出てくるが、特に気になった記述を引用する。
この『エヴァ』の思想を一言で表現するなら「世の中(社会)が正しい道を示してくれないのなら、何もしないで引きこもる」ということになる。もちろん、これは矮小なナルシシズムの発露に違いないが、同時に何が正しいことか誰もわからず、何かを選択して対象にコミットすれば必然的に誤り、他人を傷つけ自分も傷ついてしまう九五年以降のポストモダン状況下における「〜しない、というモラル」の結晶であるとも言える。(86-87ページ)
『エヴァ』を見たことのある人ならば誰でもわかると思うが、もちろん同作は「思想」を「一言で」表現できるような作品ではない。描写のディテールは凝っているし、親子の葛藤や恋愛など豊富なテーマが詰っている。そして主人公のシンジくんやその他のキャラクターは何度も逡巡してテレビ版と映画版でもまったく違った話になる。むしろ一言で表現できない感じこそ『エヴァ』の特徴と言ってもいい。宇野先生は本書の全体で「一言で」断言しすぎである。一部のドラマや少女漫画以外は具体的な描写やセリフを詳細に分析したりなどしていない。にもかかわらず簡単に「一言で」「思想」らしきものを取り出し、作品そっちのけでその思想についてはあれこれ意見する。これで批評と言えるのか*1。
それと「モラル」というのは宇野先生の思う当時の日本の気分のことなのだろうが、やはりそれが作品に反映される機序がわからないため「結晶」という曖昧な言葉でにごすことになっているのにも注目。
もうちょっと微妙な例だが『機動戦士ガンダム』を論じた箇所から。
『機動戦士ガンダム』の序盤、主人公の少年兵アムロは、なりゆきでロボット兵器「ガンダム」のパイロットに任命されてしまった状況下に不満を抱き、出撃拒否する。そこで、上司である士官・ブライトがアムロを殴り、叱り付ける。このときブライトが体現しているのは「社会」だ。(127ページ)
アニメの読解がこんなに単純でいいのか、とクラクラしてしまう。『ガンダム』を見たらわかるが、ブライトはそれほどストレートに社会を体現していない。むしろ自身もまだ19歳でさぐりさぐり大人っぽく振舞っているからおもしろいのである。まあそういう意味ではあえて社会を「体現」していると言えなくもない。しかしこう簡単に図式に当てはめてしまっては『ガンダム』のおもしろさがわからないと思う。
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