曇りなき眼で見定めブログ

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宇野常寛『ゼロ年代の想像力』徹底批判シリーズその10 「セカイ系」論全般の難点

 宇野常寛ゼロ年代の想像力

 ↓これの続き

cut-elimination.hatenablog.com

 今回は宇野先生と『ゼロ想』というより「セカイ系」を扱ったゼロ年代批評全般の難点について書く。まだ私も研究途上なのでフワッとしてしまうがご容赦を。しかしいずれ論文とかに発展させられそうな気もしている。

 ゼロ年代批評のセカイ系論の難点というのは、セカイ系のきちんとした分析や定義がないということである。しかしセカイ系の重要文献である前島賢セカイ系とは何か』を私はまだ読んでいないので強くはいえないが。

とりあえず『ゼロ想』だけ批判しておく。今回指摘するようなことは他のセカイ系論でも私の見た限り当てはまる。

 宇野先生は東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』のセカイ系定義を引いている。孫引きすると「主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や中間項を挟み込むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な物語に直結させる想像力」となる(『ゼロ想』33−34ページ)。『ゼロ想』1章と4章にも書いてあるが、セカイ系の代表作には『ほしのこえ』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』が挙げられる。さらに宇野先生はセカイ系はもう一つ「「自己を母親的に全承認してくれる異性の所有」を志向する作品」も指すという(116ページ)。つまり宇野先生の定義は選言的である。

 まず私が気になったのは、セカイ系論はどれもこれも『ほしのこえ』『最終兵器彼女』『イリヤの空、UFOの夏』ばかり挙げすぎである*1。これでは何がセカイ系で何がセカイ系でないのか分析できない。この三作のみを典型的なセカイ系と認めるとすると、これらは上述の東先生の定義以上に類似点がある。なんらかの戦争が行われていてヒロインが戦闘機とか銃器で戦うとか、みんな学生であるとか。にもかかわらず上のような定義が流通しているということは、三作意外にもセカイ系に入れたい作品があるからだろう。それは何か。

 宇野先生は他のセカイ系作品としてKeyのゲーム『AIR』『Kanon』や舞城王太郎佐藤友哉滝本竜彦といった『ファウスト』誌に書いていた作家の小説を挙げている。しかし私の知っている範囲では、今度はこれらの作品が上のセカイ系の定義に当てはまらないのである。これらには世界の危機なんて出てこない。やはり宇野先生はここでも作品や物語を分析していない。「これらはセカイ系だ!」と断定して論を進めてしまっている。また、私の直観ではKeyのゲームはセカイ系だがファウスト系作家はセカイ系ではない。どの作品がどういう理由でセカイ系なのか、そしてその際に採用するセカイ系概念はどう正当化されるのか、議論が必要である。

 宇野先生のもう一つのセカイ系の定義についてはまた次回触れる。

 ちなみに私の考える暫定的なセカイ系の定義はこちら。

 特別な地位にあったり特別な力を持っていたりするわけでもない若者を主人公に、宇宙とか世界の終りや太古の因縁といった壮大なモチーフの物語を展開する作品。なお、モチーフが壮大なのであって描写は壮大ではない。

基本三作も『AIR』も『Kanon』も含められる。ファウスト系作家は入らない。ポイントは『CLANNAD』も入る点。同作のアニメを見たが、『AIR』と『Kanon』の系譜なのにちゃんと労働が描かれている。この点が不都合だからか宇野先生は無視している(この「〇〇を無視している」というのは宇野先生が論敵を批判する際によく使う論法)。セカイ系は社会とか中間項とかが欠けているというより、特別でない個人と壮大なモチーフを繋ぐ詳細な設定とか描写が欠けているのである。それでも読者やプレイヤーが受け入れるようになったのがゼロ年代の特徴かと思う。『ガンダム』なんかの時代にはない点である。私は社会の反映でなく創作の方法と受容の観点からセカイ系を見ている。

 

 追記:↓続きはこちら

cut-elimination.hatenablog.com

 

*1:私は『ほしのこえ』は好きで何度か見て、『最終兵器彼女』は昔立ち読みして、『イリヤの空、UFOの夏』はアニメ版を見た。その知識で論ずる。Key作品もアニメだけ見ている。