曇りなき眼で見定めブログ

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宇野常寛『ゼロ年代の想像力』徹底批判シリーズその3 社会反映論の怪しさ─新自由主義を例として─

 宇野常寛ゼロ年代の想像力

 ↓これの続き

cut-elimination.hatenablog.com

 先日、美学者・ゲーム研究者の松永伸司先生が↓こんな興味深い講義スライドを公開していた。

slides.com

人文系の学生に向けて「社会反映論はそんなに良いもんじゃないぞ」と啓発する講義である。社会反映論の例として『ゼロ年代の想像力』も登場している(ただし松永先生は同書をそんなに嫌っていないっぽい)。今回はこのスライドを参考に『ゼロ年代の想像力』を見ていく。今回も総説的な感じ。

 スライドでは「社会反映論のうさんくさい部分」として以下が挙げられている。

 (a) 反証可能性がろくにない。
 (b) 端的な事実誤認がある。
 (c) 事実の部分が作品の解釈次第で変わる(そしてその解釈は恣意的である)。
 (d) 都合の悪い事実を無視する。
 (e) 主張される仮説とは別に暗黙の仮説がくっついている(そしてそれがあやしい)。
 (f) 他の考えられる仮説との比較がない。

(a)はまあヒヒョウというものの宿命だろう。私は問題だと思うが。(b)で言うような端的な事実誤認は『ゼロ年代の想像力』では特に気にならなかったかもしれない。アニメをよく知らないなとは思ったが。(c)に関して『ゼロ年代の想像力』の作品解釈は解釈として雑だし一人よがりだし恣意的だというのはそのうち書く。(d)もいろいろ問題があると思ったのでそのうち。(e)はスライドで述べられている通り社会反映論の重大な困難だろう。前々回と前回指摘した通り、『ゼロ年代の想像力』でも社会のことがどう創作に反映されるのかという機序が不明確である。(f)について次の段落でちょいと詳しく書く。これに加えて私は言いたいのだが、作品の解釈だけでなくそれに反映されるとされる社会の解釈も「ポストモダン状況の徹底」とか恣意的なのがさらに問題である。

 社会がどう創作物に反映されるか、実はいくらでも仮説を立てられるのではないか。その例として新自由主義(ネオリベラリズム)がどう反映されるかという論を取り上げる。『ゼロ年代の想像力』ではこの言葉自体はあまり出てこないが、小泉政権構造改革の影響は強調されている。例えば110ページでは「ネオリベラリズム」という語が出てくる。

 このアメリカの同時多発テロ、あるいは同年よりはじまった小泉純一郎元首相によるネオリベラリズム的な「構造改革」は、「たとえ無根拠でも中心的な価値観を選び取る」「相手を傷つけることになっても対象にコミットする」といった「決断主義」の潮流を大きく後押しした。理由はひとつ。「そうしなければ、生き残れない」からだ。これらの「事件」に象徴される時代の気分は、そんな「サヴァイヴ感」に彩られていた。

宇野先生によると、01年以降の新自由主義時代のサブカルチャーは「決断主義」の「サヴァイヴ系」であり、「引きこもり/心理主義」の「セカイ系」は90年代の古い想像力だという。ただし一般的にはセカイ系ゼロ年代の文化とされることが多い。そして、もっと最近杉田俊介先生はセカイ系の代表的作家である新海誠監督の『天気の子』について「新自由主義的だ」と述べていた*1

「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。

「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

gendai.media

(↓こちらも参照)

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むしろセカイ系こそ新自由主義の反映であるかのように読める*2。これはどうしたことか。まず新自由主義=ネオリベラリズムという言葉の意味が曖昧である。これは先述した社会の解釈の問題でもある。ただし、90年代と00年代以降では後者のほうが新自由主義傾向が強いのは宇野&杉田で一致しているであろう。加えてセカイ系の概念も曖昧である。これものちのち取り上げる。セカイ系が何を指すのか、90年代の傾向なのか00年代以降の傾向なのか、曖昧なせいで揺れている。そしてやはり、今回のテーマだが、社会がいかにサブカルチャーに反映されるかどうとでも言えるというのがあるのだと思う。90年代の引きこもり的な雰囲気(?)の名残として新海監督などが出てきたのか、新自由主義の体現として出てきたのか。宇野先生と杉田先生のどちらが正しいかというより、どちらもたいして中身のあることを述べていないんじゃなかろうか。

 

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*1:新自由主義社会の「反映」かのようには述べていないが、日本社会と絡めて論じているのでそう思っていそう。

*2:そう思っては書いてないかもしれないがそう推論できそう。