曇りなき眼で見定めブログ

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宇野常寛『ゼロ年代の想像力』徹底批判シリーズその2 世界は単線的に変化していてそれに合わせて創作物も進化しているという強固な思い込みの疑わしさ

 宇野常寛ゼロ年代の想像力

 ↓これの続き。

cut-elimination.hatenablog.com

 今回はタイトルの通りである。宇野先生には「世界は単線的に変化していてそれに合わせて創作物も進化している」という強固な思い込みがあるような気がしてならず、その疑わしい思い込みによって議論が粗雑になっていると思える。前回取り上げた「ポストモダン状況の徹底」という雑な概念も、この思い込みのせいで「ゼロ年代という時代の社会の発達段階を端的に表す表現があるに違いない」となった結果うまれたのだろう。この現代世界がそんな簡単に単語で表現できるはずないと思う。

 また次以降の回で取り上げる予定だが、この思い込みは悪しき社会反映論に繋がる。前回指摘した通り、社会の記述が雑なことに加えてそれが文化に影響する機序がわからない。「影響するはずだ」という思い込みがあって深く考えていないためだろう。

 20世紀には物語の大体のパターンは出尽くしている。あとはそれをどう組み合わせるか、あえてベタな物語を使うかといった選択や、文体などの手法とかメディアや技術の違いが創作物の価値を分ける。創作者たちは物語もその他の要素も自身の表現のためにあれこれ苦心して選んでいる。にもかかわらず、そうした選択の余地が5年とかの区切りで大幅に制限されると宇野先生は考えているようで、そんなはずはないと思う。例えば「物語は小説において重要か?」というのは百年以上も前にさんざん議論されていて、20世紀後半以降ぐらいからの普通の作家は物語性の強い作品もアンチ物語的な作品も自由に書く。それゆえに現代の創作文化は多様になっていて、単純に社会の構造が反映されるはずがない。

 個別作品への批評や「バトルロワイヤル系」など概念の疑わしさについての各論はまた次以降。

 

 追記:↓続きはこちら

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