曇りなき眼で見定めブログ

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【乗るしかないでしょう】杉田俊介曰く『天気の子』はネオリベらしい【「新自由主義批判」批判というビッグウェーブに】

 またもや杉田俊介批判。今回は杉田先生の『天気の子』論を取り上げる。

gendai.media

疑問点を逐一取り上げていたら↓みたいにタタリ神になってしまうので、論点を絞る。

cut-elimination.hatenablog.com

具体的には、杉田先生が『天気の子』とそのセカイ系的側面を「新自由主義」「ネオリベ的」と評していた点を取り上げる。何故かというと、いま「くちなし」さんという人の「「「新自由主義」批判」批判」ブログ記事が話題なので便乗するため。

kozakashiku.hatenablog.com

くちなしさんは私より若いっぽくて私より後にはてなブログを始めたっぽいのに私より遥かに質の高い記事を書いてバズっているので尊敬している。ちなみに杉田先生もこのくちなしさんの記事を読んだらしく、こんなツイートをしていた。

↓これを思い出した。

地獄のミサワ女に惚れさす名言集

本題

 杉田先生は、『天気の子』は「セカイ系」であり、「セカイ系」は「ネオリベラル系」だと論じている。

「君とぼく」の個人的な恋愛関係と、セカイ全体の破局的な危機だけがあり、それらを媒介するための「社会」という公共的な領域が存在しない――というのは(個人/社会/世界→個人/世界)、まさに「社会(福祉国家)は存在しない」をスローガンとする新自由主義的な世界観そのものだろう。そこでは「社会」であるべきものが「世界」にすり替えられているのだ。

「社会」とは、人々がそれをメンテナンスし、改善し、よりよくしていくことができるものである。その意味でセカイ系とはネオリベラル系であり(実際に帆高や陽菜の経済的貧困の描写はかなり浅薄であり、自助努力や工夫をすれば結構簡単に乗り越えられる、という現実離れの甘さがある)、そこに欠けているのは「シャカイ系」の想像力であると言える。

国家にも社会にも一切期待しようとしない(信じうるのは恋愛とスピ的なものだけである)新海誠セカイ系的な想像力は、「社会」を完全に排除するという意味で、案外ネオリベ的なものと近いのではないか。

 私はこういう、アニメの視覚的表現を無視して話のモチーフとかから作品を要約し、政治と絡めて「批評でござい」となるような批評は嫌いなのだが、それはさておき*1

 くちなしさんは、「新自由主義」は信念を指したり状況を指したりすると分析している(そのせいで議論が混乱すると指摘する)。そしてどんな信念や状況が新自由主義的とされるかリストアップしているのだが、ここで杉田先生が挙げているのと合致するのは「大きな政府から小さな政府への転換」「自己責任論」あたりだろうか。そしてくちなしさんは、新自由主義批判者は、このリストから恣意的に要素を選択して論じるので、相互に矛盾したり論者によってバラバラになったりすると批判している。杉田先生がこれらを新自由主義の特徴と見做した論拠は何なのか、問うてみたいところ。

 さて、更に気になるのは、そもそも「新自由主義」ってものがそんなに悪いものなのかどうか、という点である。経済に無知な私にはそこが既に判らない。実際、くちなしさんも以下のように指摘している。

 上で見たように、「新自由主義」の定義は非常に混乱しており、論者によって「新自由主義」の指すものはまちまちである。そうなると当然、論者らは自分の嫌いなものを恣意的に取り上げて「新自由主義」とレッテルを貼ってひとまとめにしているだけなのではないか、という疑いが持ち上がる*8。

 以上は「新自由主義」なるものがそもそも存在するのか、という論点を巡っての議論だった。しかし「新自由主義批判」は「新自由主義」の実在を前提にしてそれを批判するものだ。嫌いなものに「新自由主義」というレッテルを貼りつけるだけで、それは悪いものだと示せると思っているであろう論者は多いが、これも新自由主義」が規範的に悪いということが当然の前提になっているからだ。では論者らはいかなる規範的根拠から「新自由主義」を批判しているのだろうか。ジョセフ・ヒースは以下のように指摘している。

 「これは新自由主義だ!」と書く(レッテル貼りする)のが、作品を批判する際の悪口として了解されているのがそもそもおかしい気がしてくる。一部ジンブン界隈で「新自由主義」「ネオリベ」が悪口としてシェアされているのだろう。そこからして私には共感できないので、新自由主義的である事でどう悪いのかも詳しく論じて頂きたいところ。

セカイ系」という言葉が嫌いなボク

 杉田先生の批評を読んで、「セカイ系」だ「シャカイ系」だとやる感じ、なんか懐かしいな…と思った。いわゆる「ゼロ年代批評」の「オタク文化論」では「セカイ系」という言葉が乱発された。杉田先生はシソウ史的にはオタク文化論とともにゼロ年代批評の両翼を担った「ロスジェネ論壇」の人らしい。それが何故か最近はアニメに擦り寄ってゼロ年代オタク文化論よろしくセカイ系だ何だとやっているのである。シソウ界、ヒヒョウ界、ジンブン界の進歩の無さが現れているようだ。

 私は「セカイ系」という言葉が嫌いである。確かにエヴァとか2000年前後くらいのサブカル作品では「キミとボク」みたいな小さな人間関係と世界滅亡の危機みたいなのが接続される物語は多かったと思う。しかし余りにも万能語すぎた。批評が「これはセカイ系か否か」「何故セカイ系が流行ったのか」「オウムとの関連とは」みたいなものばかりになってつまらなかった。そしてアカデミックにセカイ系の実情を検証したものは見かけない(あるかもしれないので調べます)。

 私にくちなしさんくらいの力量があれば「セカイ系」を検証する記事を書きたいところ。まあ地道に調べます。取り敢ず↓を精読中。

功利(主義)についても

 杉田先生の批評でもう一点気になる所があった。

それに対し、帆高は「陽菜を殺し(かけ)たのは、この自分の欲望そのものだ」と、彼自身の能動的な加害性を自覚しようとする、あるいは自覚しかける――そして「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会(最大多数の最大幸福をめざす功利的な社会)」よりも「全員が平等に不幸になって衰退していく社会(ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界)」を選択しよう、と決断する。そして物語の最終盤、帆高は言う。それでも僕らは「大丈夫」であるはずだ、と。

 「誰か一人に不幸を押し付けてそれ以外の多数派が幸福でいられる社会」は功利主義的にも余り良くないのではないか。その一人の不幸が多数派の幸福よりも甚大だったらダメなので。もしくは少数の不幸を見逃したために不幸がどんどん大きくなる事もあるかもしれない。実は、ジンブン界隈では新自由主義と同様に「功利(主義)的」もレッテル・悪口として機能しているのではないか。

 そんな気がする*2

 なお、「ポストアポカリプス的でポストヒストリカルでポストヒューマンな世界」というのは杉田的な用語で、『ジャパニメーションの成熟と喪失』にもこんな表現が出てきた。唐突に出てくるので意味は解らない。

*1:この記事を参照cut-elimination.hatenablog.com

*2:これは杉田俊介文体のパスティーシュです。