曇りなき眼で見定めブログ

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【猛烈批判】杉田俊介『ジャパニメーションの成熟と喪失 宮崎駿とその子どもたち』という本を読んだので感想

 ↓前にこんな記事を書いた。

cut-elimination.hatenablog.com

杉田俊介という人のTwitterでのアニメ論が意味が分らなかったので批判した。しかし本人も「雑」と認めているものを揚げ足取りしては悪かったなあと思い、ちゃんとまとまった著書を読んでみた。それがこれ↓。宮崎駿と『もののけ姫』、近藤喜文と『耳をすませば』、庵野秀明と『シン・エヴァンゲリオン』、新海誠と『天気の子』、細田守と『バケモノの子』『未来のミライ』を順に論じている。

で、やはり良くない本だと思ったので批判的な読書メモを書いておく。ただし、ツイートのような意味不明さはなかった。しっかりと明確にダメな本だった。

 (電子書籍で読んだので引用にページ数を付けられませんでした。)

 (あんまり批判が細かすぎると杉田先生から「発達障害」とか「自閉的」とか言われそう。。。)

全般的な欠点

 まずは個別の点でなく本書の全般的な問題点を幾つか。私はこういうアカデミックでない批評書を殆ど読まないので、そのせいで気になった点もあるかもしれない。つまり杉田先生の問題でなく日本(?)のジンブン界の問題かもしれない。

 文章についてなのだが、謎の改行が多い。文藝批評では今もこんな文体が普通なのだろうか。パラグラフ・ライティングをもっと広めていこうではないか。どうもナルシスティックに見える。

 ナルシスティックと言えば、文中で繰り返される「君たち」に向けた文言は果して誰が誰に向けて言っているのだろう。宮崎駿らアニメ作家から観客たちに向けたものなのか、杉田先生から読者に向けたものなのか。こういった箇所の読み方が分らない。そして別にこういう書き方が格好いいとも思わないので美的な効果もない。

 この「誰が誰に」の問題に関連して、議論の内容にも大問題がある。特に前半の宮崎駿論なのだが、宮崎駿の発言、宮崎駿の生い立ちや制作事情に関する事実、社会問題などの事実、著者の社会問題に対する考え、作品(フィクション)内の事実、著者による作品の解釈、著者による宮崎駿の思想の解釈、これらが混同されてしまっている。これについては後の個別の検討を見れば合点がいくと思うが、例えば著者が社会(君たち?)に向けて言いたい事をまるで宮崎駿が観客に向けて表現している事であるかのように書いていたりする。こういうのは普段哲学文献を読んでいる私からしたらアウトなのだが、文藝批評ではありなのだろうか。

 もう少し丁寧に述べると、作家論をやりたいのか作品論をやりたいのか、或いは文化を題材にした社会批評をやりたいのか、判らないのである。それは明示した方が良かったのではないか。著者においてもそれがハッキリしないために上述のような混同が生じてしまうのではなかろうか。

 それと千葉雅也先生なんかもよくやるのでジンブン系の文章の特徴だろうが、体言止めの多用をヤメて頂きたい。「〜こと。」とか名詞で終る文とかである。こういうのは命題になっていないので真偽が問えない。何事かを主張することから逃げているように私には見える。

 坂口安吾とか中野重治とか武田泰淳とかが引用され、後半では議論そのものが江藤淳小林秀雄に引き付けられていく。杉田先生はアニメなんぞより文学の方が好きなのだろうなと思う。

宮崎駿および『もののけ姫』論

 一応叙述の順番に沿って問題点を挙げていく。

 最初からおかしな点がある。

 『もののけ姫』(1997年)は、宮崎駿にとっての「折り返し点critical turn」となった作品である。たとえば宮崎の評論やインタビューを収録した『折り返し点 1997〜2008』という書物は、『もののけ姫』の話からはじまっている。

 しかし、「折り返し点」とは何を意味するのか。宮崎駿の人生にとっての転回点。日本というクニの歴史的な転換点。あるいは、この地球という惑星の生命たちに訪れつつある大変革──。

この二文目の「たとえば」の意味が判らない。『もののけ姫』が駿にとっての折り返し点であると言える根拠を述べているのだろうか。だとしたら本のタイトルが「折り返し点」だというのは弱くないだろうか。これは駿が付けたタイトルなのだろうか。そんなことはここには書かれていない。では杉田先生がそう考察して、その例証として本のタイトルを挙げているのだろうか。だとしたらハッキリそう書くべきで、駿が折り返し点であると考えていたかのように書いてはいけない。二段落目では「何を意味するのか」ともう1997年が折り返し点だということは当り前みたいに話が進んでいて、議論は深まらない。なのでこれ以降の「折り返し点」に関する議論は全て空虚になっていると感じる。

 折り返し点と同様なことが「大人の仕事」というフレーズについても起きている。

 結論を先取りしていえば、宮崎にとっての「折り返し点」とは、物語としてのアニメーションを、あらためて「大人の仕事」として作り直すことだったのではないか──それがわたしの仮説である。

 『もののけ姫』が劇場公開されたとき、宮崎はすでに56歳である。そこからやっと、大人の仕事が本格的にはじまったのだとは、やはりずいぶんとオカシな話であり、奇妙な物言いではあるだろう。しかし、宮崎駿という天才的な物語作家にとって、アニメ作りを「大人の仕事」へと折り返し、高めていくことが何を意味したのかと考えてみれば、それは決してわかりやすい話ではない。

 「大人の仕事」──。

 それはおそらく、次のようなことだ。

 この世界を改良し変革しようとする若者たちの側、ナウシカやアシタカたちの側に立とうとするのではない。まもなく古びて滅びていく旧世代の側の存在として…

ここでも「大人の仕事」というのは著者自身が言い出した解釈なのだが、あたかも駿がそう考えていたという事実であるかのようになっていまいか。「それはおそらく、次のようなことだ」といって説明とも言えぬ説明に入っていくが、自分で導入した語なのだから自分なりの意味付けを述べれば良いのに「おそらく」っておかしいだろう。駿にとって「何を意味したのかと考え」るのではなく、自分が意味するところを解説すれば良いのである。

 折り返し地点について更に

 宮崎は、1990年前後に「いま時代は転換点にきている」と強く感じた、と語っている(出典)。1990年代の転換点。折り返し点。それは次のような意味である。

折り返し点は90年前後なのか『もののけ姫』を制作した90年代半ば〜後半なのかどっちなのか。「現代は転換点だ」というのはいつの時代も言われるよくある主張である。駿の発言は92年らしいが、その他の時期には言っていないのかというのも気になる。勢いで言っただけではないかという気もする。で、その時代の「転換点」と駿の創作にとっての「折り返し点」となんとなくいっしょくたにしてしまっているようだが良いのだろうか。

 また新しいキー・タームらしきものが出てくる。

 漫画版の『ナウシカ』が最後にたどりついた場所──。

 抽象的な言葉を使えば、それは従来の「人間」たちの道徳観や美意識がもはや成り立たないような、徹底的な意味でのポストモダンな世界であり、ノンヒューマンな世界だった。

 ノンヒューマン(徹底的なポストモダン)とは、何を意味するのか。

ノンヒューマンという語には馴染みがないので、ちゃんとした説明が欲しい。ジンブン界では知ってて当り前の語なのだろうか。ポストモダンというのも建築様式だったり思想史用語だったりする曖昧な語なので本当はちゃんと定義が欲しい。なんとなくの雰囲気で解った気になりがちな語である。で、定義するのかと思いきや、また「何を意味するのか」である。それに続くのが定義なのか帰結なのかよく判らないまま進んでいく。

 その後で漫画版『ナウシカ』におけるノンヒューマンな世界なるものが記述される。しかしそこから「フィクションの中の話に限らない」といって現実世界のノンヒューマンな状況も述べられる。現実を論じたいのかアニメーション作品を論じたいのか判らなくなる。

 問題を集約したような段落があるのでそのまま引用する。

 わが子を愛するがゆえの人体改造や子どもの遺伝子操作(デザインベイビー)と、通常の意味での教育や育児への投資のあいだに、はっきりとした線が引けなくなっていくほどに徹底化されたリベラリズムの世界。漫画版『ナウシカ』や『もののけ姫』の世界観に即すなら、それは、国際政治的な位相でいえば〈ジェノサイドや民族紛争をすら、エンターテインメントやテーマパークとして消費することが可能な世界〉であるかもしれない(廃墟化したテーマパークと、八百万の神々の世界と、収容所的な強制労働の現場とが地続きとなった『千と千尋の神隠し』)。あるいは人権問題やマイノリティ問題の位相でいえば、〈当事者の切実な声やマイノリティの実存を懸けた抵抗運動をすら、たんなる無数の利権団体の中のひとつとして処理し、マイルドに無力化しうる時代〉であるかもしれない(『もののけ姫』のエボシ御前がアシタカに対して残酷かつ倫理的に言い放つ、「賢しらにわずかな不運を見せびらかすな。その右腕、切り落としてやろう」という決定的な批評の言葉)。

まずいきなり体言止めから始まる(体言止めは主張から逃げる行為なので辞めましょう)。人体改造やデザインベイビーというのは何の話をしているのだろう。未来予想だろうか。最早現代社会の問題の話でもなくなっていて、なんでこんな話をしていたんだっけとなる。転換点としての90年代の話でも勿論ない。体言止めをしているのは、著者自身も議論のポイントが分からなくなって無理やり文を終らせるしかなくなったからではないのか。「漫画版『ナウシカ』や『もののけ姫の』世界観に即すなら」と言うが、そもそも宮崎アニメを論じる本で今更「作品に即すなら」と言い出す時点で何かおかしなことになっていないだろうか。そして「位相」という語は、辞書で意味を確認してみて頂きたい。これも言いたい事が纏まらない人が誤魔化す為によく使う、曖昧な語である。で、作品に即すと言っておいてなんで国際政治の話になったのか。その後のカッコ内でまた体言止めを使って『千と千尋』に言及しているが、今度はジェノサイドや民族紛争とどう話が繋がったのかよく分らず、また誤魔化しの体言止めに見える。テーマパークというイメージが浮んで『千と千尋』のテーマパークの廃墟となんとなく繋げてしまったのだろうか。しかし全く論理的でない。次の人権問題やマイノリティというのもカッコ内の『もののけ姫』の話と繋がらずまた体言止めである。で、『ナウシカ』に即すというのは何処へ行ったのだろう。

 またしても折り返し点について。

 この世界で生きていくには、それにふさわしい非人間的な倫理が必要になる。では、そうした惑星規模の非人間的でポストヒューマンな転回=「折り返し点」のあとの世界で、大人たちには何が言え、何ができるのか。

「惑星規模」という語が何故ここに挿入されたのか判らない。また「非人間的でポストヒューマンな転回=「折り返し点」」とあるが、こういう「=」記号の使い方もジンブン系の本でよく見る。これはどういう意味だろう。「等しい」という意味ではないように思える。折り返し点が結局なんのことだったのか分らず仕舞いなので何とも言えないが、大人の仕事ってポストヒューマンと関係があったのだったか。いやない。「=」はもっと緩やかに似た系統の概念を並べる記号ではないかと思う。矢張りこれも強い主張を避ける逃げの技法に見える。で、折り返し点というのは駿の創作姿勢の話なのか歴史や社会の話なのかここでもよく判らない。

 漸く作品の中身の話になっていく。

 それまでの宮崎作品の主人公たちは、基本的に、守るべき何かがあり、周囲の人々から自然に愛されるような人間たちだった。それに比べて、『もののけ姫』のアシタカやサンたちは、理不尽な運命や呪いを背負わされて、心に空洞や亀裂を抱えた少年少女である。この世のどこにも居場所がない。特にもののけ姫=サンは、人間にも神々にもなれず、そのどちらからも「お前なんてこの世にいなくてもいい」と言われ続けてきた。そういう娘である。

この最後の「お前なんてこの世にいなくてもいい」というのは、『もののけ姫』の作中にこのような台詞があるのだろうか。そうではなかった気がするしそうではないと思える書き方である。ということは杉田先生の解釈という事になるが、だったらそう明示して頂きたい。

 ロングショットを描くのに適したコンテ用紙を特注したというエピソードが出てくる。それによってキャラクターの苦悩を客観的に描けたと杉田先生は指摘する。こういうのは作品論として良いと思うのだが、であればロングショットのカットの具体例を挙げて頂きたかった。杉田先生は制作秘話ばかり調べていて作品を見ていないのではないかと疑いたくなる。

 次に引用する箇所には私は驚いた。

 そもそもアシタカは、なぜ、命がけでサンを助けようとするのか。まず、これがよくわからない。わたしには長いあいだ、それが謎であり、不思議だった。アシタカは、サンの境遇について、タタラ場でエボシ御前からわずかばかり聞いただけであり、彼女のことをあまりよく知らないはずである。それなのに、なぜ、自らの命を賭してまで、ひたすらサンに付きまとうのか。

 それは、サンの血まみれの顔をはじめて目にしたとき、アシタカが一目惚れしたからだ、としか考えられない。身もふたもないが、性愛的な欲望こそが、すべての動機の源なのではないか、そう考えてみて、わたしは『もののけ姫』の世界にやっと素直に入っていくことができた。

何に驚いたかというと、私はアシタカがサンに一目惚れしたのなんて一見して明らかだと思っていたのである。アシタカはカヤみたいな大人しそうな子よりサンみたいな獣性のある子の方がタイプなのだと思う。宮崎アニメの男は、コナンも、パズーも、トンボも、一目惚れが動機になっている。ハクやハウルもそうかもしれない。実はトトロもサツキの方がメイより好みだったのでサツキを助けたらしい。コンテからそう伺えるしそう考えると合点がいく。そして恋を「性愛的な欲望」とか言わんで欲しい。もっと精神的な恋もあるだろう。アシタカがどうだったかは判らんが。その後で杉田先生は、カヤをなかったことにしてるアシタカを「軽い男」と評しているが、これは当っている。

 カヤとサンの声を同じ石田ゆり子が演じているのを「不気味」と書いているが、キキとウルスラのCVも同じなので、駿はあんまりそういうのに頓着しないのだろう。

 次は知的な文章としての不備である。

 もともと宮崎駿は自己嫌悪の情念が強い人であり、せめて子どもたちのために役立つアニメーションを作りたい、しかし結果的に、アニメ産業を通して子どもたちからお金を巻き上げ、生きる力をも奪ってしまっている、その自己欺瞞に我慢がならない。そうした罪悪感を抱えこんでいた。しかも宮崎は、そうした自己嫌悪の激しさを想像力のガソリンとして物語をドライブさせていくタイプの作家であり、だからこそ稀代の天才であるのだが、そうした自己嫌悪は、宮崎のなかの男としての自己嫌悪に重なっていた。(太字は原文では傍点)

宮崎駿のこうした自己嫌悪というのはどこかで本人が語っているのか。出典がないので判らない。それとも杉田先生の推測だろうか。ならば矢張りこれも「そう明記してくれ」案件である。で、どうも推測っぽい。何故なら最後の「男としての自己嫌悪」というのは杉田先生が他でよく論じているテーマだからである。駿がそういうことを言っているならば出典がないので論として不十分であるし、言っていないのならば根拠が明示されていないのでこれまた不十分。しかし第三の可能性もある。即ち、言っている訳でも推測でもなく杉田先生が論じたいテーマを無理やり駿の思想として捏造しているのかもしれない。だとしたら、これほど罪深いこともない。

 続いて『紅の豚』について。

 第一次大戦後のイタリアを舞台に、賞金やお宝を追い求めるポルコと空賊たちのドタバタの戦いは、そのまま、宮崎監督たちが属する日本のアニメ業界のドタバタそのものとしても描かれているかのようだ。そこには、中年男性としてのぎりぎりのプライドがあり、ダンディズムがあった。なぜなら、ポルコは決して戦争にコミットしないし、空軍の誘いにも乗らないからである。さまざまなしがらみからできるだけ自由に、遊ぶように生きようとするのだ。「カッコイイとは、こういうことさ」。

ここまでで本書には宮崎駿の制作以外のアニメ業界の話題など一度も出てきていない。ここで言う日本のアニメ業界のドタバタというのは何を指しているのだろう。私は杉田先生という人は、アニメをずっと見てきた訳ではないと思っている。本当にアニメ業界の事など分っているのか。『紅の豚』がアニメ業界の何に対応しているのか説明がないので判断できない。そして最後の「カッコイイとは、こういうことさ」だが、これは糸井重里が考えたコピーである。私はこういう批評は良くないと思う。コピーは作品ではない。宣伝の為に後から付けた文句で作品の解釈や評価を歪められるような事があっては批評としてダメだろう。

 次もかなり悪どい事をやっている。

 そんな宮崎が、『もののけ姫』でようやく、青年男性としての主人公を正面から描こうとして──ひとりの男の子が、真っ当な大人の男性へと成長し、成熟していく道を示そうとしたのである。それは覚悟のいることだった。そのとき宮崎は、内なる男性嫌悪の激しさとも向き合わねばならないからだ。「死にたい」という自己破壊的な欲望(タナトス)と戦わねばならないからである。

駿が「内なる男性嫌悪」を持っていたという事がもう既に事実みたいになっている。で、男性嫌悪を持っていたとしても「死にたい」とまで思っていたかどうかは判らないだろう。これは杉田先生の個人的な経験なのではないだろうか? あとタナトスとか精神分析用語を使った批評は、昔は流行ったろうが、酷く人物や作品を矮小化するように思える。そもそも精神分析などというものが科学的に正しいかどうかという問題もあるが、正しいとしても飽くまで治療の為の一般理論であり、それを絶対視して人物や作品の繊細な部分をなかった事にしてはいけない。

 1章の結論部分もこの調子で、駿の考えなのか杉田先生の考えなのか判らない締めで終る。駿の考えならば出典が欲しいし、杉田先生の解釈ならば根拠が欲しい。杉田先生の考えを駿が考えた事にしているとしたら犯罪スレスレである。

 『もののけ姫』の作品論へ行く前に話は『耳をすませば』に移る。

近藤喜文および『耳をすませば』論

 『耳をすませば』は近藤喜文監督の作品だが、絵コンテまで駿がやっており、二人の作品と見ることもできる。そういう話の流れで以下のように述べられる。

 …。まず単純に、次の事実がある。宮崎駿に関する研究書や批評は山のようにあるが、なぜか『耳をすませば』を宮崎作品として扱う人は皆無に近い。単純な事実ではあるが、これはたんなる偶然とは思えない。ちなみに、わたしも2014年の『宮崎駿論』では『耳をすませば』の存在を完全にスルーしていた。おそらく、みな無意識のうちに感じ取っているのだろう。『耳をすませば』は宮崎駿の映画ではない、これは疑いなく近藤の映画なのだ、と。

おかしな議論である。『耳をすませば』の監督は近藤なのだから宮崎作品として扱われないのは当然だろう。「偶然とは思えない」って偶然でもなんでもなかろうに。「無意識に」と言うが意識のある人ならばそれは分るはずだ。話の展開からしたら「近藤喜文監督作品なので宮崎駿論では触れられることは少ないが、宮崎作品といっても良い面もある」みたいにするべきだ。それと、研究者たちも『耳をすませば』という作品のどの部分に宮崎駿の影響が見て取れるかとかを研究すべきだと思う。

おわり

 キリがないというか同じ事の繰り返しになるのでもうやめます…。このまま書き続けたらタタリ神になってしまう。まあだいたい問題点はわかっていただけるでしょう。