曇りなき眼で見定めブログ

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三木那由他『会話を哲学する』は素晴しい本だ!(それと『ぼっち・ざ・ろっく!』と『めぞん一刻』論)

 みんな買って読もう!

 三木那由他先生は言語哲学の研究者で、英語の堅い論文も書きつつ勁草書房から研究書も出しつつこういう一般向けのやさしい本も書いて、しかもトランスジェンダーの諸問題について活発な言論活動もしていて、私のような無産ゴミクズ学生からすると憧れのような人である。しかも本書はメジャーなものから超マイナーなものまで様々な作品が取り上げられていて、お忙しいだろうに沢山見ていて凄い。

全体の感想と細かい意見

 本書は漫画や小説や戯曲といったフィクション中の会話を例にして会話の哲学を解説した本である。理論を体系的に解説するというより、哲学者の観点から作品の会話を読み解く感じになっている。なので批評としても面白い。

 兎に角よく出来た本となっている。よく出来ている証拠に、疑問が生じても読んでいくうちに例や更なる解説のお陰で分ってくるという体験を何度もした。「この本のコミュニケーションの定義って直観と違うな?」と思ったら後でそのフォローが入ったり。三木先生も凄いが編集者も偉いのかもしれない(本の作り方なんて全く知らない私ですが)。作品による例も物凄く豊富で、かなり作るのが大変な本だったでしょうな。

 わかり易い本なのだが、それでいて著者独自の主張もあるのが良い。会話には言葉の通りの内容と言外の内容があったりする訳だが、本書ではそれとはまた違ったコミュニケーションとマニピュレーションという区別を導入する。これが三木先生の割と独自のアイデアらしい。コミュニケーションとは会話している人たちの間で約束事をすることで、マニピュレーションとは相手の心理や行動に影響を与える事だという。会話にはこれら二つの側面がある。ポール・グライスは、会話をマニピュレーションと捉えていた割にコミュニケーションとごっちゃにしていたフシもあるとか。私はグライスの理論は少しは知っているが、これにはなるほどと思った。

 コミュニケーションの概念が難しいなと思っていたら、『同級生』の例で余りにも綺麗に腑に落ちたので驚いた。美しさすら感じる例である。

 「好きだ」と言わずに好きだという事を伝える例として『うる星やつら』のラストが挙げられている。これについて高橋留美子先生は意識的にやっているという事が公式Twitterから分る↓。

めぞん一刻』も『らんま1/2』も『犬夜叉』もこれである。

 「ウルトラスーパーデラックスマン」で句楽が建前上正体を隠しているのを約束事の力を恐れていると解説しているが、もっと単純に、バレバレなのに正体を隠すスーパーヒーローもののメタ的なパロディネタなんじゃないかと思う。とはいえ、三木先生の解釈も両立するだろう。だいぶ前に読んだ作品なのでまた読み返してみます。

 会話内容から如何にして約束事を導くかが大事な気がする。その辺りは本書では余り触れられていないが、いろいろ研究がありそうである。私は論理学をやっている訳だが、勿論すべて古典論理の推論で説明がつく訳じゃあないだろう。

 内言や独り言も場合によっては自分との会話とみなせ、会話に含まれるようである。内言は作品の例が出てこないが、独り言の例は出てきている。しかし私は余り内容のある独り言を言うことはない。内言も、自分に言い聴かせるということはない気がする。なので本当に会話の例として適切なのか? と考えた。

 またそもそも、フィクションを例としているが、会話の哲学というのは飽くまで現実の会話を対象としている筈で、どうしてフィクションの会話にも議論が適用できるのか、考えてみたら不思議である。「おわりに」では、フィクションは現実を反映していると述べられている。当ブログでは、アニメや漫画の感想を書く際、内言や独り言を無駄に多用する作品を批判するのが常である。それは現実にはあり得ない気がするからである。また 「作品は作者と鑑賞者の会話である」と考えてみたらどうなるか。内言や独り言に加えて過剰な説明もだが、作者にはマニピュレーションで仄かして欲しいところをコミュニケーションの次元で言われてしまうのが嫌なのかもしれない(高畑勲はこの辺りが上手い)。

 最近は差別語やヘイトスピーチ言語哲学で扱う研究をよく見る気がする。そういう視点も本書の随所にあった。

『ぼっち・ざ・ろっく!』について少し

 先日アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』の感想を書いた。その際に「キャラクターたちが会話をしていないように見える」と述べた。何故そう見えたのかハッキリとはしていないのだが、どうも相手の話を聴いて理解していないように見えるのが原因らしかった。脚本・演出・演技のせいで。

 本書の内容と突き合わせて考えてみたかったが、しかし本書では聴く側の役割が殆ど論じられていなかった。聴き手の知識とかは関係するようだが。例えば、コミュニケーションが成立するには聴く側が何らかのアクションを取る必要がある、とかそういう事はないだろうか。或いは、相手の発話を受けてどう答えるかによって約束事の成立の可否が決まる、とか。そういう風に考えてみるのも面白いかもしれない。

めぞん一刻』論

 私は『めぞん一刻』が大好きで、そのうち『めぞん一刻』論を書こうと思っていたのだが、忘れていた。本書で『めぞん一刻』の終盤の有名な墓参りのシーンが取り上げられていた。私もこのシーンについて論じようと思っていたので、ついでにここに私の『めぞん一刻』論を簡単に書いておく。

 本書では五代くんが死者である惣一郎さん(の墓)に語りかけるシーンを、コミュニケーションが成立ち得ないのに「もし成立っていたら」と願う会話として取り上げている。本書の議論は一旦置いておいて、私が思うに『めぞん一刻』という作品において重要なのは、これを響子さんが隠れて聴いているという点である。実は、役割を反転した回がこれ以前に存在している。

 物語の丁度なかば辺りで、墓参りにきた響子さんが惣一郎さんに語りかけるのを五代くんが隠れて聴くエピソードがある。五代くんは響子さんが思い詰めて出掛けていったと聴いて、自殺でもするんじゃないかと心配でついてきて盗み聴きしている。響子さんは墓の前で暫く黙った後「惣一郎さん…どうして死んじゃったの? 生きてさえいてくれたら…こんな思いしなくてすんだわ……」と言って泣く。それを聴いた五代くんは響子さんがまだ惣一郎さんを忘れられずにいる事に愕然とする。しかし、実は響子さんは心の中でこれと反対の事を考えていた(ここでは内言が効果的に使われている)。五代くんや一刻館の人びととの暮しが楽しくて、そのせいで惣一郎さんの事を忘れそうになるのが辛くて泣いていたのである。

 『めぞん一刻』という作品では、墓参りが重要な役割を果す。惣一郎さんの命日ごとに墓参りのエピソードがあり、だいたい2、3巻おきに描かれる。上述のエピソードの次の次の墓参りでは、またしても五代くんが盗み聴きする。しかし今度は恋敵の三鷹とともにである。隠れる前のこと、墓の前で五代くんと逢った三鷹は何しに来たのかと訊かれ「ぼくは"ご主人に"あいさつに来ただけだ。必ず彼女を幸福にしてみせますって…"ご主人"も快く承知してくれたよ…」と言う。

 作中で五代くんはずっと響子さんの中の惣一郎さんと向き合っていた。対して三鷹は最大の敵が惣一郎さんだと言う事になかなか気付けなかった。ここが三鷹さんの敗因だろうなと思うのだが、それはこの辺りによく表れている。その事に気づいても三鷹は、響子さんを惣一郎さんから引き剥がそうとしてしまった。対して五代くんはそうしないという結論に至った。

 また、上述の半ばのエピソードでは響子さんが惣一郎さんに語りかけるのを五代くんが盗み聴きした事で誤った意味が伝わってしまったが、クライマックスのエピソードでは五代くんが惣一郎さんに語りかけるのを響子さんが盗み聞きした事で却って五代くんの真意がよく伝わることとなった。ここに美しい対称がある。

 さて、本書『会話を哲学する』では、コミュニケーション的暴力なる概念も出てくる。強い者が、弱いものに不利になるように約束事をしてしまう事である。死者というのはコミュニケーションにおいて擬似的に弱者なのではないかと私は思った。三鷹は死者である惣一郎さんに対し擬似的に一方的な約束をしようとしてしまったのではないかと。五代くんには、弱者である死者の気持ちを考えられる優しさがあり、それに響子さんは気付いたのではなかろうか。