曇りなき眼で見定めブログ

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杉田俊介氏という人のツイートに対する難癖

 杉田俊介氏という批評家が「すずめの戸締まり」を受けてTwitterに批評(のようなもの、と言った方が良いかもしれないが、まあ批評)を書いていた。それが良くない批評だと思ったので批判的に取り上げる。この人は弱者男性に関する本を出していて、私も弱者男性(まだ予備軍かも)として気になってちょっと見てみたのだが、ポストモダン臭が強くてあまり読めなかった。今回のツイートは頑張って読んだ。

 以下、そのツイート。そして論理的な順序でなくツイートに沿って段落を分けて書いていくます。

 幾度も出てくる「主体化」「主体」という言葉の意味がついに分らなかった。どうもフーコーの用語で「主体化」というのがあるようだ。しかしそれの事なのかは分らない。で、それは敗戦の経験によって培われるものなのだろうか。日本は敗戦後アメリカに占領された訳だから、どちらかというと主体が奪われる感覚があったのではないかという気もする。あるいは民族や国家の主権とかでなく個人の問題なのだとしたら、夏目漱石とか明治の作家のテーマであるように思え、だったら敗戦が主体化のきっかけになるようには思えない。

 宮崎駿は1941年生れで敗戦の時4歳であるから、空襲の記憶はあるようだが「敗戦」という政治的な概念を記憶として持っているようには思えない。その辺は実際どうだったのだろう。「風立ちぬ」なんかは生れる前の時代の話なので、駿にとって戦争は後から聴いたり勉強した部分も大きいのではないか。高畑先生は5、6歳上なのでもう少し確かな記憶があると思うが。

 押井さんに屈託やイロニーのようなものがあるのは確かだと思う。「パトレイバー2」なんかは戦争をちょっと皮肉っているところがある。押井論は良さそうなのだがこれ以降押井さんは言及されない。

 モダンな主体というのはやはり漱石なんかが書いているような近代的自我のようなものの事だろうか。だとしたらそれは明治期に芽生えて戦後に強固になって昭和末期から平成にはまた弱くなるようなものなのだろうか。全体的に世代論のような事をやろうとしているのだろうが根拠が薄弱だし庵野さんと新海さんでは世代も見てきたものも違うだろうし微妙である。まあ自分で仰る通り「雑」でしょう。

 PCというのが何の略なのか分らない。パーソナル・コンピュータかと思ったが、ポスト・コロニアルのようでもあり、ポリティカル・コレクトネスのようでもある。一つ目のツイートはどれも可能性があるが二つ目のツイートはポスコロかポリコレかであろう。皮肉ではなく本当に分らない。

 家族というのは細田さんがよくテーマにしている。地域共同体というのは「君の名は。」や「すずめの戸締まり」に出てくる田舎描写であろうか。だとしたら新海作品の登場人物はそういうのを嫌っている面もあるので溶け込んでいるかは微妙であるが。そして「自他未分の集合性」というのは人類補完計画の事だろう。これらをなんとなく一緒くたにして論じているが、作品を見れば分る通り描かれ方は全く異っている。こういうのは作品自体を見る事を軽視した悪しき批評である。ご自身の「雑」な見解に合せて作品の細部を無視し一文で纏めようとしないで頂きたい。

 「戦後のポストコロニアルな歴史(アジア/アメリカ関係)に根差した主体性」ということでまた主体性が出てきた。ここで言う主体性は民族や国家の話のようだが、しかし先ほど示唆した通りそれと個人の問題とは異っている筈で、家族や地域共同体や自他未分の集合性がポスコロを意識した途端テーマにならなくなるようには思えない。

 「業界内父殺し」というフレーズはこの連ツイの中で最も意味が分らなかった。これはなんだろう。駿と庵野さんの師弟関係のことだろうか。しかし庵野さんはインタビューで駿批判をすることはあっても作品で「(業界における)父を殺した」と言えるほどのことはやっていない筈である。細田さんも精神的には駿の弟子のようなところがあるだろうが別に駿殺しはしていない。新海さんも当然影響は受けているだろうが同様。

 書き振りからすると「戦後のポストコロニアルな歴史(アジア/アメリカ関係)に根差した主体性」と「業界内父殺し」は二者択一というか、「戦後のポストコロニアルな歴史(アジア/アメリカ関係)に根差した主体性」を選ばなかったために「業界内父殺し」に向ったと読めるのだが、業界内父殺しなるものはそんなものなのだろうか。この文の前半と後半の繋がらなさも「業界内父殺し」の意味不明さを助長している。

 その業界内父殺しが次のツイートでは「戦後的父殺し(の悪循環)」と言い換えられている。パラフレーズされても依然として分らない。父殺しというのはギリシア悲劇にも描かれる由緒正しいモチーフだが、戦後日本に更に特有なものがあるのだろうか。マジでGoogle検索したが分らなかった。そしてその後の文章展開で一層分らなくなった。庵野細田新海三氏の作風はこの戦後的父殺しの悪循環を断つためのものなのだとか。

 庵野さんが「戦後史そのものをオタク史化」したようなのだが具体的にどの作品のことを言っているのだろうか。庵野さんは戦後史をテーマに作品を撮ったことはないと思うのだが。これは批評の世界では共通了解なのだろうか?「雑」だとしてもこういう所は丁寧にしていただかないと、やはり作品を蔑ろにしているなあと感じる。そしてオタク史化によって絶対的主体が得られるようなのだがメカニズムが分らない。

 細田さんが「日本アニメとディズニーを(再)融合させようとし」ているようなのだが、これも具体的にどの作品のことなのだろう。「竜とそばかすの姫」ではディズニー系の人をデザインに使っていて「美女と野獣」のオマージュもあったがそれのことだろうか。それは(再)融合という程のものなのだろうか。単に新しい試みとして面白そうだからやったというようなことではないのか。

 新海さんの神道民俗学趣味みたいなのはKeyのゲームや東方なんかにも見られるものなので庵野細田と並べて語るのは違うような。(ダサいフレーズだが)ゼロ年代的なモチーフというか。

 4つ目のツイートは論述としておかしい。近代的市民革命なんて日本を含め殆どの国で起きたことがないのだから、その経験のあるなしを作家の特徴の原因と考えるべきではない。また「国作りや民主主義や普遍的正義を作品で積極的に描くことができ」ないというのは確かに宮崎・高畑に当て嵌まっていると思うが、別に高畑・宮崎以外にもそれらをテーマとする人は少ないのだから特に意外でもない。また、高畑・宮崎双方がリアリティレベルの高さを特徴としていると私は思うのだが(それぞれリアリティの演出法の違いは勿論あるが)、それとこれらのテーマは相性が悪いだろう。そして「火の鳥」なんかで国作りを描いていた手塚治虫ももちろん近代的市民革命を経験していない。「アンパンマン」は普遍的正義っぽい作品だが、やなせたかしも経験していない。(民主主義を積極的に描いた作品て何があるだろう?)

 神殺しというと「もののけ姫」が思い浮ぶが、他に高畑・宮崎作品で何かあるだろうか。「ホルス」とかか。それほど反復されているモチーフではないんでないか。

 そして父殺しとか王殺しとか神殺しとかポストモダン系の人は好きですなあ。フロイトの影響だろうか。これは彼らにとって耳にタコかもしれないが私は何度でも言うが、フロイトなんて現代科学ではほぼ否定されているのだから*1、あまり依拠すべきではない。

 

 さて、何故こうツイートとというアンオフィシャルなものにネチネチと揚げ足を取ってきたのかと言うと、このツイートというかこういう批評スタイル一般への私の違和感を形にしておきたかったからである。私はこう思う。この人は批評やジンブンガクが好きなのであってアニメは好きではないのだろうなあ、と。もっと言うと、批評やジンブンガクに感動したことはあってもアニメに感動したことはないのではないか。…というのは邪推が過ぎるのでもう少し弱めると、批評やジンブンガク以上のものを作品から受け取ったという経験を述べる言葉をまだ持っていないのではないか。フーコーフロイトについて勉強し感動したことの確認をアニメを通して行う事で精一杯なのではないか。だとしたら(フロイトのくだりからも分る通り)学問もそんなに好きなのではないのではないか。そのせいで独りよがりな意味不明な語が多いのではないか。。。

 まあでもそういう人がアニメ批評を書いているというのが現状なのだろう。別に悪いことではない。というか、悪いことだと言う権利は誰にもない。しかし権利はなくとも私は言う。この批評は悪い批評である。

 しかしそれは兎も角「主体」は分らない。

 「意味が分らない」を連発したが、引用リツイートでもそうした反応がチラホラあって安心した。

 あと、富野氏がなんで出てこないのかと思ったら、杉田さんはあまり見たことがないらしい。

*1:勿論パイオニアとしては偉大である。しかしそれを言ったら天動説だってそうだ。