曇りなき眼で見定めブログ

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宇野常寛『母性のディストピア』という(なかなか良い)本を精読する その3

 ↓これの続き!

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宇野常寛『母性のディストピア接触篇』『母性のディストピアⅡ 発動篇』(ハヤカワ文庫JA

移動の時間が長かったのでそこそこ読み進んだ。宮崎駿論、富野由悠季論、押井守論を一気に取り上げるよ。

富野論としてはなかなか良い。宮崎論と押井論はどうなんだ

 初めの方の章を読んであまり良くない本だと思ったが、富野由悠季論はなるほどと思った。その前の宮崎駿論とその後の押井守論は相変らず首をかしげざるを得なかったが。

 タイトルの「母性のディストピア」という語は富野論を読んでよく解った。母性のある女性キャラクターの用意した安全圏のような所に男キャラが囚われてしまうという事らしい。確かに「ガンダム」シリーズのララァはそんな感じである。というか『逆襲のシャア』でシャアがララァを母になぞらえていた。「イデオン」でもカララが母になるという事が重要なモチーフとなっている。その他の富野作品は私は知らないのでなんとも言えないが、ニュータイプの概念も家族とかそういうものに引き込まれていってるらしい。ただし「母性のディストピア」なるものが富野作品で描かれているとして、それが戦後日本の象徴とかいうのは考えすぎだと思う。

 対して宮崎論で少女を「母」と論じているのは疑問である。少女は少女であって母ではないだろう。確かに宮崎作品には家事をテキパキやる優しい女の子がよく出てくるが、それは母ではあるまい。「飛ぶ」というモチーフについて男キャラが母の胎内でしか飛べないとか述べているが抽象的でよく解らなかった。アスベルとかパズーとかハウルとかポルコとか普通に飛んでいるし、暗い過去のある男主人公と優しいヒロインと空を飛ぶというモチーフが宮崎アニメの王道というだけのことだろう。

 押井論に至ってはもはや「母」というモチーフが全く機能していなくてダメだった。ラムが「母」的だとか断定しているが全くそうは思えない。押井作品では「情報論的転回」が起きているらしいがこれも意味不明だった。

 私は宮崎アニメや押井アニメはけっこう見ていて富野アニメはあまり見ていない。富野作品ももっと見るとアラが目立つのかも。

「そう、」

 文体上の話。 「そう、〇〇なのだ」という文が多い。宇野先生の持ち味だろうか。いいのだけど気になりだすと鼻につくようになる。

過度な図式化

 政治と文学の対比から父と母とかどんどん図式的な対比が連なっていく本書。『パトレイバー2』を論じた箇所では「母性=内部=虚構=映像=平和」と「父性(演出家)=外部=現実=実体験=戦争」とか書いている(83ページ)。とんでもない図式化である。この図式には一つ明らかに間違っている点がある。拓殖の仕掛けた(演出した)戦争は虚構だという点である。つまり平和と戦争は逆だと思う。

キャラクターの台詞を監督の思想と安易に解釈するな

 『カリオストロの城』におけるルパンのクラリスに対する台詞を宮崎駿の思想みたいに解釈しているが、そんな訳はない。『パトレイバー2』の後藤や荒川や拓殖の台詞を押井の思想と解釈しているのもおかしい。台詞から思想を読み取るのではなく、監督が何故そのキャラにその台詞を言わせたのかを考えるべきだろう。また、どちらも脚本は監督自身ではないという点も考慮すべきである。

画面を見よう

 作品のテーマとかメッセージとか思想とかを読み取ろうとするあまり「考える」ことを重視して「見る」ことを放棄した批評を私は「アイマスク系」批評と呼んでいる。まるで上映中アイマスクでもしてたのかというぐらい見える映像への言及がないので。

 『スカイ・クロラ』を論じたところなど、作品に具わった理屈を題材に議論したいあまりに同作の時間感覚とか映像上の著しい特徴を無視している。これじゃあ作品を論じているとは言えない。

そんなセリフはない

 『紅の豚』に「かっこいいとはこういうことさ」、『風立ちぬ』に「生きねば」という台詞があったかのように書いているがこれらはキャッチコピーである。批評家はキャッチコピーに惑わされずに中身を見るべきだと思う。

 また『紅の豚』のポルコの台詞を「飛べない豚はただの豚だ」として引用しているがこれはよくある間違いで、正しくは「飛ばねぇ豚はただの豚だ」である。

自分で作ればいいのでは!?

 宇野先生は「こういうアニメを作るべき」というのが強くあるようで、だったら自分でアニメを作ることを検討すべきだと思った。