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当ブログがネチネチと批判しているWebサイト『週末批評』に、さらにネチネチと批判している杉田俊介先生がとうとう寄稿してしまった。これは読まずにおれまい。
今回の杉田先生は『ゴジラ-1.0』『首』『すみっコぐらし ツギハギ工場のふしぎなコ』の三作を論じている。私は三作とも観ている。よかった。
しかし「論じている」と書いたものの、杉田先生の文章はもはや「論」になっていない。思いつきの断片みたいな文章をたくさん繋げただけのものになっている。なので批判しようにも主張が掴めなくて難しい。
主張はないが『ゴジラ』と『首』はどちらも首が象徴的に描かれているという着想はあるようだ。それに『すみっコぐらし』も「首」を介して無理やり繋げている。批評というより象徴主義散文詩に近い。相変らず体言止めを多用しているのだが、加えて今回は「……」で終る黙説法の文も多い。全体的に自分のことを吉増剛造みたいな大詩人と勘違いしとるんかという感じである。吉増先生はちゃんとした文章も書ける人だが。
↓で取り上げた『すみっコぐらし』の感想ツイートが取り入れられている。それに『ゴジラ』と『首』を「首」モチーフでくっつけ、いつもの資本主義批判に繋げている。
cut-elimination.hatenablog.com
これも相変らずだが、資本主義がどうのこうの言うのは杉田先生の主張というか願望であって、それがあたかも作品や作家の主張であるかのように書くのはやめてほしい。どういうシーンがどうしてそのような主張をしていると解釈されるか根拠を示してくれ。場合によっては犯罪級である。そんでそうしたジンブン左派の資本主義批判というのも、最近↓の本を読んだのでよりバカらしく思えてきた。
以下の引用を見よ。
『ツギハギ工場』では、かつて工場=資本主義は倒産して、機能不全に陥っており、それでも無理矢理にブルシットジョブ(本来は必要のない仕事)を捏造して、またハイパーメリトクラシー的に個々人の能力を引き出して、キャラクター産業をも自己言及的に取り込んでいく。資本主義は「ツギハギ」なのである。その中に取り込まれ、組み込まれていくすみっコたちは、それに対して、相互扶助的な小集団=共同の場を(アジール/シェルターとして)維持しながら、たとえ無意識のうちの行動であれ、現代的な資本主義の暴力性に対峙するという「大文字の政治」の問題とも関わっていく。あたかもそれ自体がツギハギの、ジグザグの抵抗のようにして。
ツギハギなのはお前の文章だよ。ジンブン左派が言いそうな単語を適当にくっつけて文章を生成しているだけではないか。AIなのか? この人は。