↓この動画をご覧ください。
むぎまるという茶色の猫は一時的に預かっている猫で、去勢手術をした直後らしい*1。遺伝的には灰色のもちまるという猫の弟らしい。動画タイトルは「手術後の弟が心配すぎて一日中看病してる兄猫が優しすぎました…」とあって、もちまるがそわそわとむぎまるの周りを歩いているシーンに「心配でたまらないようですね」と字幕が付けられていたりするのだが、どうも私にはもちまるがむぎまるのことを心配しているように見えない。動画制作者の恣意的な解釈というか演出であるように思える。
そもそも猫に「心配」「弟」のような人間的な感覚があるのだろうか。というか猫に心ってあるのだろうか?
動物に心はあるか? というのは哲学的にも研究されていると思うのだが、私は全く知らない*2。
調べてみると哲学ではなく動物心理学における「擬人主義」批判というのが見つかる。こんな論文があった。
擬人主義というのは、ヒト以外の動物の行動をヒトになぞらえて解釈することである(らしい)。擬人主義は一般に批判されるが、この論文の著者は部分的に擁護している。
私は注目したのは論文に出てくる「モルガンの公準」なる命題である。
ある行動がより低次な心的作用の結果と解釈できる限り、より高次な心的作用の結果と解釈すべきではない。
とのこと。私は水族館でイルカ・パフォーマンス*3を見た際にこれに似たことを考えたことがあった。パフォーマンスが始まる前、客がフード・スタンドで買った食べ物の包み紙がいくつか風で飛ばされてイルカのプールに入ってしまっていた。するとパフォーマンスの開始とともにイルカ(バンドウイルカだったと思う)がそれらの方へ泳いでいって咥えて回収したのである。客が歓声を挙げて、私も「すげ〜」と思ってしまった。しかし何故すごいと思ったのかというと、これはイルカが「掃除」という高次な活動をしたように見えたからである。だがよく考えれば、イルカはトレーナーから指示されるとプールに浮んだ物体を咥えてくるようオペラント条件付けされているだけではないのか。これは見る方が相手に人間のような高度な心のようなものを期待してしまっていたのだろう。これはモルガンの公準で排除できる。
さて、もちまるに関しても「肉親」を「心配」していると擬人的に解釈することもできるだろうが、イルカの例よりももっと恣意的ではないだろうか。それによってもちまるや動物文化に害が生じなければまあ良いのだが、どうも動画制作者も動画のコメントも、猫に人間のような高度なことを期待しすぎているフシがあり、なんだか不気味なのである。