曇りなき眼で見定めブログ

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テレビアニメの金字塔「母をたずねて三千里」を見た感想

 1976年のテレビアニメ「母をたずねて三千里」を見終えた。テレビアニメの金字塔であると思う*1。見返しつつ一話ごとに感想とか書きたいのだが、あのハッピーエンドを見てしまうと途中の辛い展開をもう見たくないなあ。という訳で簡単な感想を。

animestore.docomo.ne.jp

 スタッフ・キャスト

 監督:高畑勲

 脚本:深沢一夫

 キャラクターデザイン・作画監督小田部羊一

 場面設定・レイアウト:宮崎駿

 作画監督補:奥山玲子

 美術監督椋尾篁

 音楽:坂田晃一

 出演:松尾佳子永井一郎など

この辺りが重要人物ですな。あと各話の絵コンテで富野喜幸(現・富野由悠季)も。

 

 際立って良い点が幾つかある。まず宮崎駿先生によるレイアウトである。レイアウトというのは絵コンテを基に詳細な構図を描いてアニメーターと美術スタッフに指示する役割ね。前々年放送の「アルプスの少女ハイジ 」と本作は、駿が全話全カットのレイアウトを描いているらしい。信じられない話である。とんでもない作業量。まさに超人。高畑先生はこのレイアウトという役職が特に重要と考えていたようで、まだまだ若かった駿の才能を評価して託したようだ。レイアウトの美しさは前半のジェノバの街の様子や中盤のアルゼンチンの草原でよく現れている。特に第2話でマルコが街を駆けていく幾つかのシーケンス。街の景観が次々と映されていくのだが、19世紀の異国の風情がありありと現れている。勾配のキツさと壁の狭苦しさに何とも言えない生理的な気持ち良さがある。絵画的な美しさとも違った、キャラクターが動くための空間の美学がある。駿のレイアウトはまるで魔法である。

 続いてキャラクターデザインについて。これも「ハイジ」同様小田部羊一先生が担当している。「キャラクターデザイン」という役職は今では当り前だが、ハイジの際に小田部先生の役職としてクレジットされたのが日本で最初だと言われている。高畑先生は企画段階で頓挫した1971年の「長くつ下のピッピ」でも小田部・宮崎両氏と組んでいる。その後の72年の「パンダコパンダ」そして74年の「ハイジ」辺りでお馴染みのジブリ風のキャラクターデザインが確立されたようだ。本作「三千里」でもマルコは、後のジブリ作品とも通底する素朴で可愛らしいデザインに仕上がっている。何の衒いもない普遍的なデザインはまさに日本アニメのスタンダードを創出したと言える。またマルコが共に旅をする猿のアメデオ(アメディオ)のデザインも傑作である。「ハイジ」に出てくるヤギのユキちゃんもそうだったが、もっとデフォルメすることも出来ただろうに生物らしさを残したまま可愛いキャラクターとなった。

 そして今回見ていて特に蒙を啓かれた想いがしたのは、美術の素晴しさである。私は作画についてはちょくちょく書いているが美術のことはまるで知らなかった。本作の美術監督椋尾篁氏は後に「銀河鉄道999」などSFでも活躍した大レジェンドらしい。私はいま放送中の「チェンソーマン」「ぼっち・ざ・ろっく」「Do It Yourself!!」といったアニメも見ているのだが、「三千里」と比較すると美術の貧しさに驚かされる。「DIY」はまだ工夫を感じて良いのだが、「チェンソーマン」や「ぼざろ」は単にその場面に必要な物体を描いただけに思え、何らかの表現、あるいはもっと言うと藝術になっていないのである。椋尾氏(ら)の美術は特に夜の街灯の光や昼の窓からの入射光を美術で描いていて、これが滅法美しい。最近のアニメであれば何も考えず撮影で処理するだろう。

 レイアウトの素晴しさ、キャラクターの素晴しさ、美術の素晴しさ、これらが相まって、ごく単純な、例えばマルコが地平線上を上手から下手へ駆けていくようなカットもなんだか面白く見えてくる。これぞアニメーションの真髄と言わずして何と言う。

 勿論ストーリーも面白い。原作は読んでいないのだが*2、原作は短編(というか長編のごく一部)なのでかなりの部分がオリジナルらしい。ペッピーノ一座の存在は脚本の深沢氏の考案らしい。ペッピーノがいなくなってからどんどん見るのが辛くなる展開が続いたので、いてくれて良かった。またこれも最近のアニメとの比較になるのだが、最近のアニメにはないドラマがあると感じる。最近のアニメを見ていると、一話ごとにノルマがあってそれをこなしているという感じのものが多い。人間が行動を起こして行動を変えて、みたいなうねりが感じられない。ちょっと抽象的だが分る人も多いんでないか(これも「ぼざろ」や「DIY」で感じた事)。そして全52話連続で、一話ずつ大きく話が動いていくアニメというのは意外と空前にして絶後かもしれない。ロボットものや魔法少女ものには一話の定型があるが本作にはない。空前絶後というほどではないかもしれないが最近のアニメの常識では考えられない。マルコが最終的に医者を目指すと言う結論に至るのも、初めの頃から丁寧に伏線が貼られていて感嘆してしまった。

 声優は特にペッピーノ役の永井一郎さんが良い。大立ち回りである。波平もそうだが、永井さんはお調子者親父をやらせたら一流ですね。小原乃梨子さんも私は好きなんである。

 

 で、ここまで高畑監督の事を殆ど書いていないのだけれど、高畑先生の凄さはそれほど自明でない所にあるんでないかと思う。

 まず第2話に戻るのだが、マルコが街を駆けていくシーンで、人にぶつかりそうになったり馬車にぶつかりそうになったりして「おっとっと」となったりする。また狭い道を通る際に人を避けて進んだり。こういった演出の積み重ねで、マルコが、多くの他者が住む世界で生きているということが実感されてくる。先述のドラマがあるという話とも関連するのだが、全編を通して、コントロールの効かない他者や自然の存在というものが強く印象に残る。ドラマを生んでいるのはここだろう。

 続いて、心理描写である。と言っても「カイジ」みたいなものではないよ。心理描写と言うより精神が宿った人物の描写とでも言うべきか。私が特に気に入ったエピソードは第28話「バルボーサ大牧場」である。この回ではペッピーの一座が大牧場の若旦那のサルバドールに招かれる。で、お屋敷に泊めてもらえるのかと思ったら一座が泊まるのは牧童の割と汚い家だった。この一連のやりとりでのペッピーノ永井さんの芝居が素晴しい。屋敷の前で荷物を下ろそうとしたら「馬車のままついてきなせえ」と言われ「馬車のまま?」と間抜けな声で返す。屋敷に入れてもらえなかったのである。この「馬車のまま?」の間抜けさは演出と演技が素晴しい。このように、相手の言う事が即座には理解できず一瞬おかしな間が生じたりとか、そういう会話のリアリティがけっこうある。

 28話では人形劇を通して登場人物たちの心が暴かれていくのだが、その前のコンチエッタの落胆が描かれるくだりも良い。コンチエッタはずっとバルボーサ大牧場に行くのに反対していた。サルバドールに初めて会った時から彼に反感を持っているようだった。貧乏人を見下していると言ってみたり。しかしそれは、実は見初められたのではないかという期待があって裏腹な行動に出たのではないかということが、何故かうっすらと察せられた。実はサルバドールは自分の婚礼のために一座を招いたと分ってコンチエッタは悲しそうに笑う。一切に説明台詞などない。これが演出というものである。この演出は凄すぎて何がどう凄かったのか最早よく分らなかった。

 同話はマルコをモデルにした人形劇を一座が上演する。主人公が母に会うという話にしたところいまいち客のウケが悪く、ペッピーノはとっさにアドリブで母が死ぬというラストにしてしまう。ペッピーノは客を「泣かせる」ということに拘っている。フィオリーナとコンチエッタはこの悲しいラストを非難する。これは制作陣のメタフィクショナルな意図が透けて見えるように思える。フィクションの中でフィクションを論じている。「三千里」の前年には同じ「名作劇場」枠で「フランダースの犬」が放送されていた。宮崎駿は、理由は不明だが同作を酷評しているらしい。「フランダースの犬」は「ハイジ 」や「三千里」以上に視聴率的に成功したが、同作を暗に批判しているのがこのメタフィクショナルな仕掛けだったのではなかろうか(そんなわきゃないか)。そしてフィオリーナとコンチエッタの非難は現代の創作界にも刺さるだろう。

 

 などなど。兎に角、現代のつまらない深夜アニメなんか見るぐらいなら「母をたずねて三千里」を見ましょう。

*1:金字塔ってピラミッドのことらしい。

*2:小学生の頃に読んだ記憶があるけどその記憶とは全然違う話だった…。どういうことだろう。