曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』とかいうのを観てきた!(なんか短い)

 まあこんなもんでしょう!

 公開からけっこう経ってから観たのは、テレビ版とビデオ版計90話を全部見るのに時間がかかったため(ちゃんと追いついてから観ました)。それでも客はかなり入っていた。

 不思議に思ったのだが、短くないだろうか? 白鳥沢高校戦なんてテレビアニメで10話に渡ってやっていたのに、本作は90分もない。原作の分量は同じくらいっぽいのに。どうしてだろう。

 短さゆえか、あまり盛り上がり切らずに終ったように思う。ケンマくんを熱くさせるというのが話の焦点だったわけで、実際最後のほうで熱くなるわけだが、なぜ熱くなったのかいまいち説得力がなかった。烏野がどういう点で音駒を上回って勝ったのかもよくわからず、なぜ勝てたのか納得できない感じがある。

 また昨日『劇場版 エースをねらえ!』を見たので比較するが、演出の引き出しが少ないように思う。試合の経過を端的に表す画面か誰かの顔とセリフ(内言)ばかりで単調である。最初から緊張感のある試合展開の連続で、観ているこちらの緊張が持続しないのもマイナスか。試合後半にピークを持ってくるためにもう少しテンションをコントロールすべきだったのでは。

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 とまあ批判的なことばかり書いたけれど、テレビ版も本映画も、質の高いアニメだと思う。私としては、スパイクとか大技よりも、普通のレシーブの作画が良いと思う。レシーブした後に受け身みたいなのを取るのはバレーの基本の動きみたいで練習シーンもあったが、そういうのをちゃんと研究してリアルに描いているのは好感が持てる。『エースをねらえ!』を見て思ったのは特訓とか人間関係がドラマの軸でテニスという競技をあまりちゃんと描かないなあということ。現代スポーツ漫画・アニメの良さは、その競技や試合のおもしろさが伝わるように詳しく描くことだと思う。この点で『ハイキュー!!』も優れている。

 ちなみにテレビ版でいちばんおもしろかったのは青城戦。ぶっちゃけ及川がいちばん強敵感があった。しかしシーンとしていちばん印象的なのは白鳥沢戦でツッキーが雄叫びを上げるところ。あれはイイね。

キミは『劇場版 エースをねらえ!』を見たか?(古典でありながら前衛)

 アニメファン必見の古典的名作です。出﨑統監督の代表作。

 けっこう前に劇場で観たきりだったのだが、↓のような特典付きで安価なDVDが出ていたので購入し再見。

 「物語」シリーズを見た後に見ると、新房監督や尾石監督がいかに影響を受けているかよくわかる。会話や試合のシーンであえて背景にヘリコプターを飛ばしたり花火を描いたりしてそちらを意識させる。重層的な映像というかほとんどシュールの領域である。

 しかしこのヘリコプターの演出は「ひろみの主観的な時間を描いた演出」として押井守監督が絶賛している。押井監督が『ビューティフル・ドリーマー』を作る際に本作を繰り返し見て参考にしたというのは有名な話で、本作は前衛的でありながらアニメ映画の教科書とも目されている。そうしたミクロな点だけではなく、全体の構成にも時間の操作が意識されている。本作はかなりの分量の原作を90分弱にまとめるにあたり、物語を大胆に省略している。それでいながらあえて意味のあまりないゆったりとしたシーンも挿入している。このあたりが押井監督含む演出家たちを魅了しお手本になっているらしい。

 出﨑演出はこのように主観と客観の融合とか時間の操作という観点から語られるが、個人的には単純に画面のあまりの迫力に圧倒される。宗方コーチがひろみに電話する際に何故かネオン街の公衆電話から掛けていたり、ことあるごとに背景に大型客船が描かれていたり、あまりに大袈裟でギャグすれすれなのだがこれがおもしろい。

 出﨑アニメへの入口として、オススメの作品です。

最近読んだ本を紹介しちゃおうかな(論文生産術、論文作成メソッド、数学のための英語、博士号のとり方)

 最近は研究のノウハウ的な本をいろいろ読んだので大紹介。

ポール・J・シルヴィア、高橋さきの訳『できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか』

 これは素晴しい本だった。論文指南書なのだが、書き方だけでなく、メンタルの持ちように多くの分量を割いている。自己啓発書みたいに鼓舞してくれる。私も啓発されてしまった。

 本書の最大の教訓は、論文を書くスケジュールと具体的な課題を決めてそれを厳格に守れ、ということである。私も本書の通り実践してみたところ、本当にたくさん書けるようになった。それだけでなく、研究に向うモチベーションも高まるし、健康的だし、良いことずくめである。

 査読コメントにへの対処の仕方も書いてあり、これも重宝している。私は査読対応というものを何もわかっていなかったな〜と目から鱗が落ちた。

ポール・J・シルヴィア、高橋さきの訳『できる研究者の論文作成メソッド 書き上げるための実践ポイント』

 上の本の同著者による続編。メンタルではなく論文の書き方に絞っている。

 著者の専門である心理学論文の書き方が中心なので、私は査読対応を述べたところだけ読んだ。査読対応の解説は上の本より少し詳しくなっていて、データも載っている。

E・M・フィリップス、D・S・ピュー、角谷快彦訳『博士号のとり方 学生と指導教員のための実践ハンドブック』

 博士号とは何か? 博士課程の学生と指導教員はどうするべきか? を解説した本。イギリスの学生向けに書かれた本で出てくる制度もイギリス基準だが、各国語に翻訳され長年読み継がれているとか。

 かなり実践的で、インタビューに基づく生々しい実例が豊富。身が引き締まる思いである。

 本書もメンタルの持ちようをいろいろ説いている。執筆スケジュールを決めるべきという話も出てくる。やはりそうなのね、と思った。

 博士論文はプロの研究者の資格があることを示すために書くのだという話とか、指導教員との面談の細かいテクニックとか、博士課程約3年間の計画の立て方とか、審査の練習の仕方とか、ためになることがたくさん書かれている。

服部久美子、原田なをみ・David Croydon監修『数学のための英語教本 読むことから始めよう』

 もっと早くに読まなければならなかった本だが、ようやく読めた*1

 数学の論文を書くための英語指南書。日本の数学系の学生の現代のバイブルじゃなかろうか。本書を読んでいる学生はかなり多いと思う。私も数学をヘヴィに用いる研究をしているので、大変ためになる。

 数学文献に頻出する文法事項とお決まり表現が読解用テキストとともに詳しく解説されている。章末には英訳・作文問題もたくさんあって、解答も付いている。かなり力がついた気がする。文献案内も親切で、今後の学習に非常に役立つ。

*1:『論文生産術』では、書き方の指南書を読む時間も執筆時間に含めることが推奨されている。それに倣って本書を読むことも執筆スケジュールに組み込んだ。おかげで読み通せた。

河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその17 キャッチコピーをもとに批評するのをやめないか

 ↓これの続き

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 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 映画やアニメを論ずる際、そのキャッチコピーから作品を読み解いていくということは、基本的にすべきではない。本書で河野先生も宮﨑駿監督『もののけ姫』『風立ちぬ』や高畑勲監督『かぐや姫の物語』のキャッチコピーについてかなりの分量を割いて論じている。しかし、もちろんキャッチコピーは作品の一部とは言い難い。

 キャッチコピーは鈴木敏夫とか糸井重里とかその他プロデューサーが主導して付けたもので、監督の意図は殆ど反映されない。少なくとも後から宣伝のために付けられるものだから、物語の解釈をする際にキャッチコピーに惑わされてはいけない。本書中で河野先生も高畑監督が『かぐや姫の物語』のキャッチコピー「姫の犯した罪と罰」をあまり気に入っていないことをちゃんと指摘している(212ページ)。アニメ映画は多くの人が携わって作られるもので、キャッチコピーもその工程の一部と言えるかもしれないが、そもそも本書はアニメ映画作品の作者として監督を強く想定しているわけで、本書でキャッチコピーを大きく取り上げるのは妙である。本書ではキャッチコピーをあからさまに作品の一部かのように読解しているわけではないが、私の考えではそれだけだと不十分で、もっと積極的に無視していくべきだと思う。

 『風立ちぬ』のキャッチコピー「生きねば。」はマンガ版『風の谷のナウシカ』の最後のセリフであることは有名である。有名であるが、『風立ちぬ』のキャッチコピーの印象が強いために『ナウシカ』のセリフとしても再注目されたように思われる。本書は『ナウシカ』の大きなテーマとして「生きねば」を取り上げているのだが、これも『風立ちぬ』のキャッチコピーとしての「生きねば。」に引っ張られすぎだと思う。またナウシカのセリフも、ナウシカが生き残った人びとに向けていっているのであって、駿が読者に向けて言っているというのとは少し違う。

 『もののけ姫』のキャッチコピー「生きろ。」は私は糸井重里の名作だと思う。これは作中でも名言なのだが、アシタカは「そなたは美しい」と合わせて言う。ここから「生きろ。」だけ取り出したから上手いのである。なのでキャッチコピーでは作中とはちょっと違う意図が生れていると思う。また、公開が「エヴァンゲリオン」の劇場版と富野監督の『ブレンパワード』と同時期で、これらのキャッチコピーが「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」「頼まれなくたって、生きてやる!」とそれぞれ「生きろ。」好対照だったことから「生きろ。」がより印象的になったという事情もある。

 というわけで、キャッチコピーはおもしろい。

 本日『ブレンパワード』のキャラクター原案を務めたいのまたむつみ氏の逝去が報じられた。ご冥福をお祈りします。

蒸し返された成田悠輔の炎上、ジョセフ・ヒースの『ルールに従う』、人文社会系の学者は分厚い本を書くべきという話

 成田悠輔先生の「集団自決」発言がまた蒸し返されて再炎上している。アンチ成田としては嬉しい。↓アンチ成田記事は下から辿ってください。

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成田先生ももっとハッキリとした釈明コメントを出せばよいと思うのだが、プライドが許さないのか、飄々としたキャラで獲得した信者を失いたくないのか。とにかく批判に対して説明を尽くさないのは学者として良い態度ではない。またいろいろな発言や本の記述から、成田先生はSNSでの立ち振舞いや炎上のコントロールを学問的な真理探究よりも気にしているフシが見受けられ、そこのところに学者としての弱点があると思う。

 話はかわって。マシュマロでこんなタレコミが入った。

marshmallow-qa.com

助けて論理えも〜ん!ヒース『ルールに従う』の「命題」の意味がおかしいんだよ〜!批判記事を出してよ〜!

で、図書館で当該書籍を見てみた。

索引に「命題的態度」と「命題的に差別化された言語」という語があり、当該ページを見た感じではそれらの語の中の「命題」の用法はおかしくないと思う。で、続いてイントロダクションを読んでみたら「ポジティブな命題」という語が出てきた(9ページ)。この意味はここではよくわからなかったが、まあおかしくはないのではないか。「命題」の誤用としてよくあるのは、疑問文を命題と呼んでしまうとか*1、文ではない句を命題と呼んでしまうとかで、そういうのがあるのかと思っていたがそれは今のところはない。今後もっと中身を読んで検証します。

 しかしこのジョセフ・ヒース『ルールに従う』はなかなかおもしろそうな本である。私は最近↓の本でゲーム理論を勉強しているのだが、数学的な理論の背景に意外と哲学的な議論があって驚いた。

『ルールに従う』はそういうゲーム理論など社会科学理論の基礎部分を哲学的に考察する本の模様。ヒース先生は哲学者だが、哲学史にもその他諸科学にも造詣が深くて驚く。

 成田悠輔問題に戻る。成田先生は経済学が専門だが、経済学といってもかなり先端的で応用的な研究をしておられるのだと思う。つまり社会問題の広い範囲に的確なコメントをできるような学者ではない。そういうのが専門ではないので。私は「学者は専門分野にだけコメントしておけばいい」とは思わない。しかしいろいろな分野にコメントするのであれば、いろいろな分野に応用できるような基礎理論を持った学者であるべきだと思う。ヒース先生は著書で社会問題にも言及しているが、それは基礎的で総合的な研究が基盤にあるからだろう。↓みたいな絵空事のような薄い新書しか書けない成田先生は、いろいろな社会問題に物申せるほどの力量はないと思うし、専門分野では一流でもそうした力量のない学者というのはちょくちょくいるのだろう。

成田先生は『ルールに従う』と同じ叢書「制度を考える」シリーズのハーバート・ギンタス『ゲーム理論による社会科学の統合』を翻訳していて、けっこう熱い訳者解説を書いている。

成田先生も本当はこういう本が書けるような学者になりたかったのでは? 今からでも遅くないから、メディア出演とか雑文書きの時間をもっと総合的な理論の探究(もっとあからさまに言えば幅広い読書)にあてるべきだと思う。

 というわけで、人文社会系の学者は基礎的で総合的な分厚い本を書こう! 実際、哲学やその他人文社会科学では、そういう分厚い本を書いた学者こそが尊敬されている(一部例外もいるが)。この点で人文社会系と自然科学系で学問のやり方が異なるように思う(自然科学系では一人の学者が大きな理論を作ることはもうあまりない)。で、私の見た感じ、日本にはそういった本を書く学者は少ない。ヒース先生みたいな博識タイプの学者があまりいない気がする。頑張ろう!

 また、前に哲学史が必要か不要かみたいなことをいろいろ書いたが↓、総合的な理論を自力で展開するには過去の議論をかなり遡る必要があり、哲学史の知識が助けになると思う。

cut-elimination.hatenablog.com

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*1:疑問文も命題と考える人も稀にいるかもしれないが。

河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』徹底批判シリーズその16 「アニメ判定家」という概念を提唱したい

 ↓これの続き

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 河野真太郎『増補 戦う姫、働く少女』

 前回までで『魔女宅』論批判を終えて一段落したので、今回は総論的なことを書く。軽めに。

 今回は「アニメ判定家」という概念を提唱したい。私はたびたび「アイマスク系批評」という言葉を使う。映像作品の批評で、視覚的な表現に全く言及しない、作品を見ていないとしか思えないようなもののことである。そういう批評が何をどう批評しているかというと、マイノリティの権利とか資本主義への批判とか、要は批評家が取り上げてほしいと思っているテーマを正しく取り上げているかどうかなのである。つまり批評というよりは判定で、この意味で私は批評家でない判定家にすぎない人が多いと思う。特にアニメに対して多い。

 河野先生は判定家で、本書は判定書である。作品の視覚的細部についての言及はもちろんほとんどないが、その上アニメと関係のないテツガクや社会学の話が多く、判定のための基準の議論ばかりしているように思える。

 そんな感じ。

植村先生の「「哲学研究に哲学史は不要」論」論の続きを読んだわよ

 前に書いた↓これの続き。

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↑ではSauer先生という人の論文と植村玄輝先生によるまとめ↓を取り上げた(Sauer論文のリンクは植村先生の記事内にあり)。

uemurag.hatenablog.jp

植村先生はその後もいろいろコメントを書いておられる。

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植村先生はSauer論文に対する反論の用意もあったようだが、どうも最初の記事がバズったわりにあまり理解されていなかったようで、その後の記事もSauer論文のまとめと敷衍が中心となっている。

 私としては、植村先生の記事「その4」で書かれているように、Sauer先生の論証は強力と思っている。歴史的文献を読むことが現代の文献を読むことより重要だ、と擁護することこそ難しいのである。

 ただし植村先生は「その2」記事で、

哲学の歴史においてずっと問われてきたわけではないような問題について認識的な目的を達成したいならば、おそらくSauerも、歴史上の哲学者の文献を読むことも時間の無駄ではない(かもしれない)ということを認めるだろう。

と少し哲学史を擁護している。こういう方針で哲学史を研究する哲学者はいるような気がする(具体的な人はちらほら浮ぶ)。ただし、だとすると現状の哲学界は哲学史偏重という印象がある。

 また、植村先生は、論証の強力さと結論の過激さとの間には一般にトレードオフがあると指摘し、

何が言いたいのかというと、Sauerの論証を今回の記事のように理解するならば、その結論はそれほど過激なものではないということだ。哲学史について何か否定的なことが述べられると心が動かされてしまうのはよくわかる(私もそうだ)。そういう人は、Sauerの主張から出てくる批判が本当に自分に刺さっているのかどうかを、この記事を手がかりにしてよく確認してほしい。実はその批判が刺さっていなかったという人も多いのではないだろうか。

と述べている(植村ブログの「その4」より)。「実はその批判が刺さっていなかったという人も多い」のかどうか、哲学研究室の人たちにインタビューして調べてみたい(刺さりまくった人に怒られてしまうかもしれないが)。

 しかしSauer先生の論文でも少し述べられていたが、哲学史が哲学研究にとってそれほど重要ではないのだとして、ではそもそもなぜ哲学研究において哲学史がこれほど重視されるに至ったのか、これが疑問である。これこそ哲学史を研究することで解明できるのではないか。