曇りなき眼で見定めブログ

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『火垂るの墓』は反戦映画なのか? というのがたびたび話題になるので高畑勲監督の発言をまとめときまっせ

 終戦の日(というか敗戦の日)なので。

 

 以前に書いた高畑勲監督『火垂るの墓』についての↓の記事は、当ブログで最も多くアクセスされている。

cut-elimination.hatenablog.com

やはり皆さん気になるところなのでしょう。

 『火垂るの墓』について、この清太とおばさんの論争に加えてもう一つよく議論されるのが、同作はいわゆる反戦映画なのか、というものである。高畑勲監督が「これは反戦映画ではない」と言ったのを聴いたことがある人は多いのだろう。しかし高畑監督は「反戦映画だ」という意見を認めないわけでもない。それでいろいろ論じられるのだろう。

 本記事では、上の記事と同じように、『映画を作りながら考えたこと』という本から高畑監督の関連発言を抜粋してまとめる。

 まず監督自身が書いた『火垂るの墓』の企画書から。同作は野坂昭如が自身の経験をもとに書いた小説が原作である。バブルの当時なぜあえてこの作品をアニメ映画かしようと思ったのか。

 いまこそ、この物語を映像化したい。

 私たちはアニメーションで、困難に雄々しく立ち向かい、状況を切りひらき、たくましく生き抜く素晴らしい少年少女ばかりを描いて来た。しかし、現実には決して切りひらくことの出来ない状況がある。それは戦場と化した街や村であり、修羅と化す人の心である。そこで死ななければならないのは心やさしい現代の若者であり、私たちの半分である。アニメーションで勇気やたくましさを描くことはもちろん大切であるが、まず人と人がどうつながるかについて思いをはせることができる作品もまた必要であろう。(420ページ)

高畑監督は原作を読んで、清太は現代の若者のようだと感じた。戦争という状況を通じて現代の若者を描こうとしたのが『火垂るの墓』なのである。

 次に引用するのは『火垂るの墓』の上映イベントでの発言。ここで「反戦映画ではない」と言っている。

 じつは私は反戦のメッセージを伝えようということでこの映画を作ったわけではないのです。

 この映画を作ることにきまったとき、原作を読んでいる人から、なぜこんな話をアニメーションにするのか、とよく聞かれました。暗すぎる、みたくない、という反応が出るのではないかというのです。私はもちろん、その問いにうまく答えられませんでしたし、出来上がりを観てもらった時、やはり同じ問いが出るようだと映画作りに失敗したことになりますから、制作中もずっとどう受けとめてもらえるかが気がかりでした。しかしただひとつ、私は、この物語が若い人々にはよくわかってもらえると確信していたのです。それは、この物語の主人公、清太の生き方に今の若い人が共感できるはずだと思ったからです。(441−442ページ)

反戦の映画ではないということが語られている。その意味するところは、やはり現代の若者に共感してほしいからというもの。

 さらに同イベントでは、反戦映画はどうあるべきかということも語っている。

 私は「反戦」のアニメーションはひどくむつかしいと考えていたし、いまもそう思っています。空襲や原爆投下でもたらされる戦争の悲惨を感情的にドラマ化するだけでは現代の状況となかなか切り結ばない。むしろ知的に冷静に、ドキュメント的に過去の戦争がなぜ起きたのか、将来あるかもしれない戦争をどう防ぐのかを考えていけるものにしなければならないと思うのです。もちろん戦争中に日本が他国に対して何をしたのかも含めて戦争の悲惨ということを考えなければいけない。とすれば、もうお手上げにならざるを得ません。だから、私は「反戦映画」などというむずかしいものはとうてい作れないと思っていました。(443ページ)

高畑監督の思う反戦映画のあるべき姿と『火垂るの墓』はだいぶ違っている。この箇所は高畑監督の理知的な面がよく出ていておもしろい。

 しかし上の引用に続く箇所で、『火垂るの墓』から「反戦」のメッセージを受け取るのももっともだと述べられている。

しかし『火垂るの墓』をみて、圧倒的多数の方がそのなかに「反戦」のメッセージを読みとってくださったようなのです。

 小学生からは、戦争はこわい、主人公の兄妹がかわいそう、その死に強い印象を受けた、戦争は悲惨だ、絶対にしてはいけないなど、単純だが素直な反響が全国的にありました。最前列で観ていた中学生の男の子たちが声をあげて泣いていた。観て来た子供が父親にヴィデオを借りてもらって一緒に観ながら解説をするのだけど途中から涙ぐんで黙ってしまった、など、大人も子供も泣いた人が非常に多い。そして「反戦映画」だと受けとめておられるのです。私はあらためて、それで当然なのだ、と反省させられたわけです。(443−444ページ)

高畑監督と観客との思惑のズレがおもしろい。監督は「戦争中の悲惨な状況を描く=反戦のメッセージ」とは思っておらず、悲惨な状況における現代的なマインドの少年を描くことを目的としていた。しかしその状況のほうの描写があまりにも徹底していて、そこが観客に強い印象を与えたのだろう。だがそれもそれで当然だと高畑監督は言っているわけである。

 反戦映画ではないのに反戦映画だと思われたということは、『火垂るの墓』は失敗作なのだろうか。そんなことはない。前に書いた「清太とおばさんどっちがクズか論争」が湧き起こるのも、清太というキャラクターが監督の意図の通りしっかりと描けているからだろう。

 反戦映画と思われるのは監督の本意ではないのは確かと言える。だがそれは、それくらい戦争という悲惨な状況がよく描けているということだ。そしてそこで生き・死なざるをえない清太という少年も余すところなく描けている。やはり『火垂るの墓』は傑作である。