曇りなき眼で見定めブログ

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アニメ『火垂るの墓』の清太=クズ・おばさん=マトモ説がたびたび話題になるので高畑勲監督の発言をまとめときまっせ

 先日『火垂るの墓』に関するこんなツイートがバズっていた。 

大人になって気付いたこと

西宮のおばさんが言ってることが正論で
清太がクズだったということ pic.twitter.com/IKCkhT28Vb

— ヒーリングっど♡もりー光秀@早春イベオール甲完走 (@Mory_Mitsuhide) 2023年7月20日

このツイートに対して「高畑監督はインタビューでこう言っていて〜」みたいなリプライとか引用も相次いでいる。私はこの手の「清太=クズ」「おばさん=実はまとも」という理論、およびそれへの反論、そして更なる再反論、みたいな流れをけっこう見飽きている。それぐらいトゥイッター(X)で何度も繰り返されている話である。

 何度も繰り返されているということは私のような高畑勲伝道師の普及活動がまだまだ足りていないのだと思う。というわけで高畑監督の文章とかインタビューとか対談を抜粋しながら解説していきます。

清太とおばさん、どちらが善でどちらが悪か

 まず私の感覚としては、清太が軟弱な奴でおばさんにもそれなりの理があるというのは、このようにあえてツイートしてバズるほど「意外な事実」ではないと思う。それくらい作品を見れば明らかではないか、と。なので、見たあと忘れてしまってなんとなくのイメージでおばさんを悪と憶えていて、改めて考えるとそうでもないなとなる人が多いのかもしれない。

 ただし清太がクズとかそこまでは思わないし、おばさんもまああまり良い人でもないだろう。どちらかが絶対的に善で反対が悪とかそういう作品ではないし高畑勲はそのような作品づくりをする人ではない。

 では高畑監督は清太とおばさんについてなんと言っているか。まず公開前の記者発表資料から。なお引用はすべて『映画を作りながら考えたこと』(高畑のいろんな文章やインタビューをまとめた本)から。

 清太は母を失い、焼け出されて遠縁にあたる未亡人の家に身をよせる。夫の従兄である海軍大尉にひがみでもあったのか、生来の情の薄さか、未亡人はたちまち兄妹を邪魔者扱いし、冷たく当たるようになる。清太は未亡人の前に膝を屈し、許しを乞うことが出来ない。未亡人からみれば、清太は全然可愛気のない子供だったろう。

「よろし、御飯別々にしましょ、それやったら文句ないでしょ」

「そんなに命惜しいねんやったら、横穴に住んどったらええのに」

 浴びせかけられる言葉もそれを口にする心もたしかに冷酷そのものではあるが、未亡人は兄妹が本当にそんなことが出来るとは思っていなかったかもしれない。清太はしかし、自分に完全な屈服と御機嫌とりを要求する、この泥沼のような人間関係のなかに身をおきつづけることは出来なかった。むしろ耐えがたい人間関係から身をひいて、みずから食事を別にし、横穴へと去るのである。卑屈に自分にすがって来ることをしないこの子は、どこまでも憎らしく、未亡人は厄介払いしてもあまり良心が痛まなかっただろう。(418-419ページ)

ここで高畑監督はやや清太よりだろうか。おばさんもそれなりに冷酷な人間と考えていることがわかる。しかし清太にも我慢が足りなかったと暗に言っているかもしれない。

 もう少しおばさんよりの発言もある。次は『火垂るの墓』の上映イベントか何かで観客に向けて話したものらしい。

 たとえば、結果的に主人公の兄妹を追い出すことになるあの親戚のおばさんをみて、今の若い人は「ひどい」と思うだろうし、清太があの家をとびだす気持ちに全面的に共感するはずです。しかし当時の状態を経験した人は、あの程度のいやみは特別のことでもなんでもなく、ひどい「いじめ」といえるかどうかさえ怪しいことを知っています。あのおばさんは利己主義ですが、それは多くの人がそうだったわけです。だから清太はもっと堪え忍ぶべきだったのではないか、わがままがすぎたのではないか、と思う人がいて当然なのです。(442ページ)

高畑勲の狙い

 上の発言からもうかがえるが高畑監督は、(1988年頃当時の)若者が清太に共感することを狙って本作を作っている。これは上の講演の後の部分やその他インタビューなどで何度も語っている。原作者の野坂昭如との対談での以下の発言も見よ。

 高畑 小説を初めて読んだとき、主人公の清太が、戦時中の中学三年生としては、随分感じが違うなあと思った。そこがすごく面白かった。あの時代の少年というと、ともかく力強く生きぬくみたいな感じがあって、そのためにはガマンもしなきゃいかんと、そういうことが戦争中から戦後の復興、あるいは高度成長にかけてずっと変わらなかったという気がするんです。やることは変わっても、人を支えている気持ちみたいなところで変わってなかった。

 野坂 そうですね。

 高畑 ところが、清太というのは違う。おばさんにイヤ味を言われると、その屈辱に耐えないでパッとそこから身をひいて別の行動をとる。ガマンをしない。そういう清太の気持ちは、むしろ、いまの子どもたちの方がよくわかるんじゃないかと思うんです。あそこでガマンをしなきゃならんと思うのはぼくらの世代です。いまの子どもたちは「ムカつく」なんて言い方にも端的に現れているように、快いか快くないかという判断を基準にして、何かをやろうとする。そういうあり方と、清太の行動とはどこかで通じるものがあるんですね。子どもたちに限らず、時代そのものがそうなりつつあるような気がして、この時期に映画化できるんだったから非常にいいんじゃないかと思ったんです。(421ページ)

これと関連して、本作はいわゆる「反戦映画」ではないとも繰り返し述べている。あくまで現代の若者を描いた作品なので。

 私なんぞは高畑監督の狙い通り清太におおいに共感して見てしまう。しかしもっと時代がくだってそういう受け取られ方をしなくなってしまったのだろうか。だが、公開当初から高畑監督の狙いはあまり当っていなかったらしい。もう一度さきほどの講演から。

 予想外だったことは、私より上の世代にもさきほどいいましたような拒否反応的なものがほとんどなかったことと、逆に私が最も共感を示してほしいと思っていた高校生から二十代にかけての人のなかに、重苦しい、暗い、見たくない、あるいは涙も出ない、という人々がかなりいたことです。しかし、これもまた当然といえば当然かもしれません。老境に入りかけた上の世代にとって、あの戦争は胸に迫る「想い出」にちがいありません。また、「むかつく」という言葉が示すように、快不快でものごとを感覚的に判断しがちな若い人々は、たとえ清太の心情が自分とあるところまで似ていたとしても、それはかえって不愉快な気持ちを起こさせられることになる場合もあると思います。むしろ自分とはほど遠い大ヒーローに感情移入して、気持ち良く映画館を出て来たいのでしょう。(444ページ)

これはけっこう鋭い指摘である。清太に共感できないというより、清太に共感するからこそ拒否反応を示す人が多かったのでは、と。最初のツイートの人もそうかもしれない。

まとめると

 清太とおばさん、どちらかが善でどちらかが悪とか、そんな簡単に表せるような作品を高畑監督は作らない。清太がクズに見えるかもしれないが、高畑監督は意図的に清太を現代のダメな若者のように描いているので、それは意外でもなんでもない。むしろ、戦後に生れた我々が共感できるようなキャラクターに狙い通りなっているからこそ清太を責めたくなってしまうのかもしれず、ごく普通の反応である。しかし高畑監督の意図を考えるとそこから現代の我々の姿勢を問い直すべきなので、その点を我々伝道師が説いていきたい。

 なお、「清太を糾弾する世の中になることが私は怖い」という高畑監督の発言がトゥイッターではよく取り上げられるが、これは『映画を作りながら考えたこ』には載っていなかったので引用しない。私もどこかで読んだことがあるので架空の発言ではないはず。アニメージュの記事が元らしい。