曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

ノエル・キャロル『批評について』(森功次訳)という本を読んだ!

 みんな買って読もう!

 批評とは何か、何であるべきかを分析した本。一般向けの本らしく、美学・藝術哲学初心者の私にも分りやすかった。

 キャロル先生の大きな主張は「批評は理由に基いた価値づけだ」という事である。そしてその価値づけは、作者の意図がどれだけ達成されているかという点に対して行われる。しかも作者の意図の特定やその価値づけは客観的に出来るという。以下の難波先生のブログ記事でよく纏まっている。

lichtung.hatenablog.com

 難波先生は原著を読んだそうだが、邦訳を読んだ私から更に言うと、森先生の訳注がとても詳しい。易しすぎるくらいである。哲学でよくある言い回しや論法にも訳注で解説があって、私のような半素人は確認しながら読めてよかった。キャロル先生の論理展開がおかしいところを指摘して補っていたりもした。例として出てくる作品の解説もある。

 私は価値判断を行わない批評家はチキンだと思っているので、おおいに共感して読んだ。まあ価値判断をやっていないようでもその実やっているという事もあろうがね。

 本書の議論では、(時に仮想的な)論敵を設定して論破していくと言う事を何度も行っているが、その際に相手の主張は極端すぎると指摘する論法がよく使われている。例えば批評の一般原理を提出する敵に対し「批評の実践ではそんな極端な事はしない、批評の基準は作品のカテゴリー毎に異なる」とやる。あるいは「自然科学では許されている事がどうして批評では許されないのか」みたいなのとか。論敵が知らぬ間にヒート・アップして議論を盛り過ぎているのを示すのである。私はこの論法が好きなのである。

疑問

 作者がその手腕によって達成すべき課題・目的はカテゴリー毎に客観的に決まっているという。私は、例えば「なろう系」みたいなカテゴリーはカテゴリーそのものがしょうもないと思っている。それを指摘するのも批評だろう。これは最後に述べられているカテゴリー間の比較を使えば良いのだろうか。ここはちょっと気になった。最後の方は睡眠薬を飲んでから読んだのでちょっと理解できていないかも。

 これと関連して、カテゴリーを新しく作る事をどう評価すれば良いかが分らなかった。私はそれにも価値があると思う。カテゴリーを新しく作る事が目的となるようなもっと大きなカテゴリーがある、とかそういう事だろうか。新しくカテゴリーを作ってもその新しいカテゴリーの枠内での評価しかされないのはおかしいと思った。

反例

 価値づけが批評の必要条件だというのは、価値づけをしないと研究と区別できなくなるかららしい。この点を覚えておいて頂いて。

 評価をするが意図に基かない批評というのがあるように思われる。蓮實重彦先生の『大江健三郎論』がそれである。テマティック批評というやつで、キャロル先生はニュー・クリティシズムに批判的だが、その系譜にあると思う(よく知らないが)。蓮實先生は大江健三郎の小説は数についての小説だと述べ、数を基礎とした体系的な構築を高く評価するのである。もちろん大江はそんな意図を持っていない(大江はこの本を読んでキレたらしい)。これは構成を褒めるものなので研究ではないように思える。どうでしょう。ただしテマティック批評といってもここまで作者の意図を無視して暴走したものは蓮實先生の著作を含めても他にあまりないので、突然変異的なものとして無視できるのかもしれない。

 もう一つ、作者が意図せずに書いたセリフが、時代によって異なる意味を持つ、という事はある。それを現代において評価するというのも批評の役割ではないかと思う。例は特にないけれど。これもカルチュラル・スタディーズの一部という事になってしまうのか。