曇りなき眼で見定めブログ

学生です。勉強したことを書いていく所存です。リンクもコメントも自由です! お手柔らかに。。。更新のお知らせはTwitter@cut_eliminationで

『フィルカル』のアニメ哲学を読む その2 稲岡大志「堀江由衣をめぐる試論─音声・キャラクター・同一性─」

 ↓これに続く第2弾!

cut-elimination.hatenablog.com

今回は『フィルカル』Vol.1 No.2の稲岡大志「堀江由衣をめぐる試論」を取り上げまっせ。稲岡先生は論理の哲学もやっているので、その意味では私の偉大なる先達である。

 本論考は声優の声とはどういうものかを分析している。結論としては、声優の声はキャラクターの声を描写する媒体でありかつキャラクターの声そのものでもあるという二重性に特徴があるという。そして後半では具体例として堀江由衣先生のパフォーマンスを検討している。のだが、まず間違いなく稲岡先生は堀江先生の大ファンで、後半は愛が暴走気味である。私は特に声優に興味がないので、若干引き気味で読んだ。

 

 まず『グイン・サーガ』についてのエピソードが語られる。作中キャラクターが「南無三」というセリフを言ったことに対して読者から、ファンタジーのキャラが仏教用語を言うのはおかしいんじゃないかという指摘が入ったとのこと。作者の栗本薫は許容範囲じゃないかと答えたという。で、稲岡先生は、その読者はそれを問題にするくらいならそもそも異世界で日本語で喋っている事を問題にすべきだったと述べる。ここから、セリフを含めた小説の言葉は、世界を描写していると主張する。注目すべきは、言葉は世界そのものでなく、飽くまで表現のための媒体だという点である。この議論には私は異論がある。結論には同意するのだが、「南無三」に感じる違和感とキャラクターが日本語を話す事の違和感は違うと思う。仏教というのは釈迦という特定の人物がいなければ生れなかったものであり、その点で日本語とは違う。仏教と日本語では存在論的なカテゴリーが違うのである。なので特定の人物に由来しない日本語は許容範囲で南無三という語は許容範囲外と感じた読者に私は同意する。言葉が表現媒体だというのはその通りだと思うが、その言葉に南無三のような語まで自然に含められるかどうかは議論の余地がある。

 この媒体論から更に進んで、稲岡先生は以下のように述べる。

…フランス人が登場する映画でフランス語によって会話がなされるとしても、その際話されている音声言語としてのフランス語は、フランス人の会話を吹き替えたものとしての日本語と、描写という点では同一の役割を持つということである。フランス人が発するフランスの場合はたまたま作中世界での言語とそれを描写する音声言語が一致したに過ぎない。(115ページ)

描写という点で同一の役割というのはそうかもしれないが、たまたま一致したというのは言い過ぎであろう。フランス人がフランス語を話すのはそれがフランス人だからである。もう少し詳しく述べると、映画の中のキャラクターが声を出し、その声を役者の声が媒体となって描写しているのではなく、キャラクターの発声器官を役者の発声器官が描写していると考えた方が良いのではないか。そうすれば役者の発生は自然とキャラクターの発生を描写することとなる。フランス人俳優がフランス人のキャラクターを演じるならばフランス語を話すのはここから自然に導ける。この考え方は今後も使う。

 で、声優の声もキャラクターの声を描写する媒体となる、と稲岡先生は述べる。しかし、根本的に、声優の声の演技と実写俳優の全身の演技とに質的な違いが見られないような気がしてくるのである。単に声優は絵があるので声の他に身体を使わなくてよくなるだけではないのか。しかし、稲岡先生の意図は恐らく、声だけが分離しているが故の特殊な難しさがあるという事を明らかにすることにあるのだと思う。この点はまた後で考える。

 その後の二重性の議論は、やはり私の先程の考えが正しいとすれば、少し違うように思える。声優の声は、キャラクターの声を表現する媒体であると共に、キャラクターの声そのものであると言う。しかし私の考えでは、キャラクターの発声器官は直接描かれることはほぼないにせよ確かにあって、それと声優の発声器官が分れているのだと思う。声が分れているのではなく、発声器官が分れている。まあちょっとした見解の相違であろう。

 音声と画像では質が違うというような事も述べられているのだが、議論が十分に尽くされているとは言えない感じで、よく解らなかった*1。なので声優の声についての語りにくさというのが何なのか判らず。

 声優が、声が描写であるという事実を隠す技術に長けているという指摘は、なるほどと思った。それを稲岡先生は「声優の声は声優の声であることを隠す」という逆説的な言い回しで表現している。

 前回もちょっと出てきたが「アニメ声」が論じられている。稲岡先生によるとこれは「隠す」ための技術の一環であると言う。アニメーションは非現実的な設定が多いので声も非現実的にした方が「隠せる」というような感じ。で、やはり私はアニメ声を擁護出来ない。小原乃梨子先生とか戸田恵子先生とかアニメ声ではないと思うが、普通にファンタジーとかSFとかをやっていて別に違和感はない。私はアニメ声のオーバーな演技こそ下手に思える。即ち隠せていない。しかしこれも、私がファンタジーにあっても人間のリアリティは捨てないでくれと思ってアニメを見るからかもしれず、やはりこれも見解の相違だろうなあ。

 で、先の実写俳優との違いが分らないという話に戻る。「隠す」というのは、むしろ顔が露出している実写の方が重要な技巧なのではなかろうか。キャラクターを俳優が演じているという事がバレないようにする、忘れさせるのは難しいので。これは私が、先に少し仄かした通り、俳優の身体はキャラクターの身体を描写する媒体と思っているという点から来ているだろう。稲岡先生はこの考えに同意するだろうか。だとすると声優の演技は、実写俳優と比べてそれほど特殊ではないし、むしろ顔を隠せる分だけ簡単で、簡単であるが故に差別化するための色々な技巧があってその一つがアニメ声なんでは、とかも考えられる。

 声優の携帯模写を巧みに行うものが少ないとあるがそんな事ない気がする。

 更に逆説的な「声優であり続けつつも声優であることを隠すことで声優であり続ける」という表現まで出てくる。面白い。

 こんな事が書いてあった。

「声優の声であることを隠すこと」という声優の技術の評価の難しさの背景には、これまで本節で述べてきた、声優という演技専門職をめぐる現状がその背景にあるだろう(しばしば先行世代の声優が若い声優の演技に批判的であるのは、こうした環境の違いに起因する声優としての発声技術の世代間の違いに無自覚であるためと考えることができるだろう)。(125ページ)

これについてはもう少し詳しく伺いたいところである。私も先ほど先行世代の声優を例に挙げたので。「こうした環境の違い」というのはどういう環境の違いなのか読み取れなかった。ベテラン声優が若い声優に苦言を呈することは偶にあるが、私は声優という職業がチャラついてきて演技と向き合わなくなったからではないかと思っている。

 

 続いて堀江由衣論に入る。『さくら荘のペットな彼女』という作品が例として出てくる。私は同作は、原作でお粥を出すシーンをアニメでサムゲタンに変えたために嫌韓ネトウヨに叩かれたという事しか知らなかったので、ちょっと見てみた。10年前の作品である。まあつまらない量産型ラブコメという印象である。稲岡先生は堀江先生目当てで見たのだろうか。

 赤坂龍之介というキャラクターを堀江先生が演じているのだが、その龍之介が作った喋るAIプログラム「メイドちゃん」の音声も、クレジットでは?になっているが恐らく堀江先生が演じているとのこと。私が見た感じでもまあそうだと思う。龍之介とメイドちゃんは声の感じは全く違うのだが、龍之介は男なのでメイドちゃんの方が本来の堀江先生の声に近い感じがする。なのでなんとなく判るのである。

 龍之介とメイドちゃんは、こうした事情なので、別のキャラクターとも言えるし同じキャラクターとも言える。そうした状況を堀江先生は上手く演じている、というのが稲岡先生の主張である。しかし、それは演技の上手さというよりも、同じ声優が違う声を出すというキャスティングの妙が生んでいる効果ではないか。そういう事も稲岡先生は書いているのだが、それよりも堀江先生の演技の貢献の方が大きいと述べようとしている。その根拠がよく解らなかった。また、これ迄に述べられてきた声優演技論が堀江先生の上手さに繋がっているのかどうかも判らなかった。キャスティングを伏せても声優好きには同じ声優だと伝わる程度に声を変えて二つのキャラクターを演じられるから上手い、という事だろうか。「隠し」過ぎてもダメで、ある程度バレるくらいに隠せるから上手いとかそういう事か。

 龍之介の作中のセリフに「ぼくはこの世に存在するたいがいのことには興味がない」というのを、あたかも主張であるかのように捉えるレトリックを使っている。

作中世界に「存在するたいがいのこと」に音声は含まれない。

赤坂とは正反対に、鑑賞者は画面内に「存在するたいがいのこと」に興味を持つ。

…赤坂のセリフは、こうした事態を圧縮的かつ象徴的かつ逆説的に言い表したものと理解できるのである。(132ページ)

この辺りから暗雲が立ち込め始める。

 堀江先生のライブ活動から「堀江由衣堀江由衣であり続けつつも堀江由衣であることを隠すことによって堀江由衣であり続ける」という更なる逆説が導かれている。要するに、堀江先生の声優活動を知っている視聴者に向けた作品もあるという事が加味された表現のようだ。しかしこれも、実写映画でもありそうで、声優の特質とは思われない。

 稲岡先生は、戸松遥先生を、この堀江先生の領域の一歩手前にいる声優と位置付けている。そして両者が共演する『COPPELION』という作品の一場面を取り上げる。戸松先生は主演の成瀬荊役、堀江先生は小津歌音役。

第12話「約束」では、投降を促す成瀬荊に対して、小津歌音は「だまされてんだよ…。お前は大人たちに、人形みたいに操られてんだ」と嘲笑気味に言い放つ。そうした小津歌音の発言に対して成瀬荊は「わからん…。何も」と動揺を見せる。… 声優が発する音声もまた、アニメーション内における音声現象を記述する媒体として、「大人たちに」操られるものでしかない。… 『COPPELION』のこのシーンは、そうした声優の音声をめぐる現状を知り尽くした堀江由衣が、戸松遥に、アニメーションというかたちを借りて、知るべきことを伝授するシーンでもある。(137ページ)

そんなわけねーだろ!(笑) 私はここを読んで我が目を疑ってしまった。稲岡先生は本気でこう思っているのだろうか。まあそんな筈ないので、一種のユーモアというか、創造的な批評として書いたのだろう。そういう批評もなくはないと私は思うが、だったら(少なくともこの当たりの一節を)真面目に読んで損したなあというのが正直な気持ち。

 さらに『ゆゆ式』という作品のオーディオ・コメンタリーでの堀江先生の発言も取り上げられている。稲岡先生って本当にオタクなんだなあ。ここも堀江先生を過剰に持ち上げていてちょっと怖かった。稲岡先生こそアニメ産業・アイドル声優ビジネスを動かす大人たちに操られていないだろうか? 小津歌音のセリフを借りて堀江先生が伝えようとしたのはそれだったのでは…

 などなど。まあ哲学徒が読む際には注意すべき論考である。

*1:後半で堀江由衣先生のライブが如何に凄いかあれだけの紙幅を費やして語るくらいなら、ここを詳述して欲しかったような…。