曇りなき眼で見定めブログ

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『フィルカル』のアニメ哲学を読む その1 佐藤暁「声優と表現の存在論─〈棒〉とは誰か─」

 『フィルカル』という哲学雑誌(ムック?)がある。

分析哲学の割と本格的な論考から分析哲学を援用したポピュラーカルチャー批評まで載っている。アニメに関する哲学的論考もあるので、それを取り上げて感想を書いていくよ。

 今回は2016年の記念すべき第一期第1号に掲載されている佐藤暁「声優と表現の存在論─〈棒〉とは誰か─」。

 

 佐藤先生はここで声優、特に深夜アニメの女性声優のいわゆる「棒」演技の分析から声優の演技論、ひいては存在論まで論じている。

 私はアニメは好きだが声優にそれほど関心がない。といっても一部のオタクやメディアが声優を持ち上げすぎなだけで、私くらいの距離感が適切でないかなとも思っている。そんな立場から。

 幾つか気になる点がある。まず佐藤先生は「アニメ」として深夜アニメに限定している。読んでいくと気づくのだが、アニメと映画などの他ジャンルとを比較する際、本論考ではアニメとして深夜アニメを念頭に置いているのだから、議論がややこしくなっている。宮崎アニメや「ドラえもん」なんかと比較した深夜アニメの特徴を抽出する作業がもっと必要だったのではないか。

 テーマとなっている「棒」という現象なのだが、説明が直観頼みなのでそこそこアニメを見ている自負がある私にもピンとこない。佐藤先生は「棒」の具体例として若い頃の花澤香菜先生を挙げている。私はちょっと「あ〜」となったが、他には誰がいるだろう。小見川千明さんとかだろうか。確かに昔の花澤先生は「棒」っぽいが深夜アニメに頻出する現象かどうか、実はなんとも言えない。むしろ劇場アニメに実写俳優が起用される時によく言われる気がする。そして実写映画でも東出昌大なんかよく「棒」呼ばわりされていると思うので、アニメに特有かどうか。

 実写映画や舞台なんかとアニメではリアリティが違うので演技の質が変るというような事が論じられている。これはまあそうだろう。しかしこれはオーディエンスの反応からそういう文化ができたのか、それとも録音の際の環境による身体的制約とかが影響しているのか、実はよく判らない。それ次第で変る論点もあるかもしれない。そして本論ではあまり触れられていないが、舞台は実写映画よりはアニメに近い。一昔前は舞台出身の声優は多かった。で、このアニメっぽいキャラを演じられていないのが「棒」の第一条件だという。これはありそうだ。

 声優における「上手い」「下手」とは何かという事も論じられているが、ここで問題なのは、これは誰が決めた上手い下手なのかという事である。佐藤先生個人の見解だろうか。それともアニメ批評家たちの緩やかな合意だろうか。それともアニメオタクどものネット言説だろうか。それともオタクという程ではないアニメ視聴者の雰囲気だろうか。これは論考なので著者本人の主観とかではないだろう。なので(美学をよく知らない私だが)ある程度の教養がある批評家の緩やかな合意というのが美学的にはいちばん説得力がありそうに思える。しかしここで挙げられている上手さの基準はそれに則っているだろうか。またオタク文化論みたいなのは一時期流行ったが、私はオタク族の鑑賞眼を全く信用していない。オタクというのは批評家のように古今東西のアニメを見たりしないので。非オタク視聴者も含め、そういう人は「上手い」と思っていても何が上手いのか説明できないだろう。「ここが上手い」と思っていたとしてもそれは教養のなさ故に欺かれた主観かもしれない。

 で、佐藤先生が考える「上手さ」とは具体的には、まず三つ挙げられる。後で四つ目がある。三つとは、声質の良さ、キャラの魅力を引き出せるかどうか、視聴者を感動させられるかどうか、だとしている。しかし、声質は上手さとは別であろうと思う。

 上手さの三つ目のポイントを説明する上で佐藤先生は、沢城みゆき先生がイベントで公開アテレコをしたら演技そのものに観客が熱狂したという例を出しているのだが、それはイベントの話であってアニメ鑑賞とは違うし、なんだかズレた例のように思える。二つ目には異論がない。

 という三つは重要ではないらしい。最も重要な「上手さ」は、様々なキャラクターを演じられる事だという。で、これは必ずしも声質をたくさん操れるという事ではなく話し方をキャラクターによって変えられる事だとか。そしてこの点で花澤先生は上手いというのだが、私にはやはりピンとこない。花澤さんてそんなに(その意味で)上手いだろうか。

 そして、大きな異論なのだが、私の思う上手さの最大のポイントとは(これは私という批評家の意見だと思って欲しい*1)、まあ二番目の点と近いのかもしれないが、キャラクターの感情をリアルに、あるいは自然に表現できる事だと思っている。そのキャラクターがそこで何を考えてそう言ったのかをよく理解して演技している、言いそうな言い方で言うことでキャラクターの心情をよく伝えられる声優が上手いと思う。これは実写の俳優の上手さにも近いのではないかと思われる。なのだけれどこれは深夜アニメに限れば事情が変ってしまって私の指摘は外れているのかもしれない。所謂アニメ声オーバー演技の声優が上手いという風潮に負けるかもしれない。そして私の思う上手い声優は深夜アニメには殆どいないのかも。しかし、例えば黒沢ともよちゃんみたいに、深夜アニメによく出ているわたくし的に上手い声優もちゃんといる(最近は舞台に活動の軸足を移してしまったが…)。

 そういう訳なので、「棒」の最大の要因は似通ったキャラしか演じられないという点にある、と結論される。これはそうかもしれないという気はする。なので本論考は概ね良いと思った。ただし、先述の第一条件の方が「棒」の要因として大きいと私は感じる。だとしたら本論考は論述の力点がズレている。また、私の「上手さ」論が正しいとすれば、「棒」かどうかは声優の演技の質としてそれほど問題がないことになるのである。ぶっちゃけ私は「風立ちぬ」の庵野さんも良いと思っているぐらいなので、佐藤先生が「棒」を「残念」と思う感覚がよく判らない。

 最後に佐藤先生は「棒」は「棒」という存在者なのであるという結論をも導こうとしているのだが、これは流石に無理に哲学に寄せようとしすぎと思った。

*1:調子乗んなって話だが、こうしないと自分を正当化できない!